もっと写生したくなる虚子の俳論三部作
虚子の俳論三部作を読んだ。どれも薄いので、一気に読みやすかった。
結論、もっと早く読んでおけばよかった。
たまに話題になる「写生とは?」について、虚子がわかりやすく回答している。あと随所で「〜なのが俳句である」と、言い切ってくれるので、迷ったときに参考になりやすいと思う。さすがは大虚子!
『俳句はかく解しかく味わう』は鑑賞本に分類されるが、俳句論や実作に立ち入るポイントや、先人にダメ出ししているポイントが豊富なので、俳句論の本としても読み応えがあった。
僕なりに気づきになった箇所を3冊まとめて記します。皆さまの俳句ライフの参考になれば幸いです。
『俳句の作りよう』
俳句の作り方は大きくわけて3つ
配合法
二個のものを置いてその間に意味を見出すというのは、その両者をよく了解することになる。それは借り物でも作り物でもない
配合法のメリットは、陳腐・平凡を避けやすいこと。一方、身に染み込むような趣の深い句はできにくい
芭蕉の弟子の許六「ある題を得たならば、その題を箱で伏せて自分はその箱の上に上り、天地乾坤を睨めまわすがよい」
題の趣に深く入る方法:じっと眺め入る
写生とは、じっとものに眺め入ることで新しい句を得ようとする努力のこと
興奮した心をもって、じっと眺め入ることで発見が生まれる
虚子が《一つ根に離れ浮く葉や春の水》をつくったのは、鎌倉を散歩していた時のこと。新しい藻草が浮いているのを発見 → よく見ると古い藻草と根が繋がっているのを発見 → さらに見ていたら1つの根から同じように遠くに新しい根が幾何学的に浮かんでることを発見。という発見の仕方だった
題の趣に深く入る方法:じっと案じ入る
「じっと案じ入る」と「じっと眺め入る」は切り離すことはできない
じっと眺めているうちに浮かんできた趣に、じっと案じ入る。そうして心の鋳冶を経て句ができる。季題と心が純一無二の境になる
例えば去来の《湖の水まさりけり5月雨》《尾頭の心もとなき海鼠かな》《秋風や白木の弓に弦張らん》など
この「じっと案じ入る」まで進んで、俳句をつくることが望ましい。ただ虚子自身もここまでやらず、手近なところで済ませてしまう癖がある
句作のTips
埋字で句をつくってみよう:過去の句の五音を使って句をつくってみる。借用する言葉が、作者の思想を暗やみから、明るみに引き出してくる動機になればいい。外物の刺激を受けない限り、ほとんど死んで、無に等しいような思想が溌剌と微動することがある。しかも古人の句に親しめるというおまけもついてくる
古人の句を読もう:俳句に限らず、人間の想像的な進歩というものは徐々に行われる。我らは古人の跡をよく研究して、築き上げたものを尊重し、できるだけの新しい力を加えてゆけばよい。少しでも芸術的才能を持っていれば、どれだけ古人の句に浸かっていようと、いつしかその個人性を発揮できる。そうして独自の新境地を開き得る
人生を味わおう:俳句は天然物を扱い、人間社会を超越的に観察するような文学である。だからと言って、人間世界を俗なものとして侮ってはいけない。人生そのものを味わい、その苦さや酸っぱさを積んだ上で超越するからこそ、底光りするその人ならではの見地が生まれる。
背景のある俳句を詠もう:人生を深く思い、考えた上で詠まれた俳句は、たとえ表現はつまらなくても、背後には一種の後光のようなものがある。これを「背景のある俳句」と呼んでいる。逆に人生を俗世界として罵ると、背景がなく味わいに乏しい俳句になってしまう。芭蕉の句にもつまらぬものは随分あるが、何遍も味わってみると底の方から味が滲み出してくる。背景のある俳句を特に尊重したい
『俳句とはどんなものか』
ふたたび「写生」とは
私どもは常に、自然の偉大で想像的で、変化に富んでいることに驚嘆するのであります。それに比べると、人間の頭は小さくて単調なものであります。
写生ということは、この自然を偉大とし、想像的とし、変化に富んだものとする信仰の上に立つのです。
変化のある新しいことを見出すのには、自然を十分に観察し研究する必要があります。その自然の観察研究からくる句作方を、私どもは写生と呼んでいるのです。
切字について
俳句において、季題の次に大切なのは、切字であるとお答えします。
俳句の切字というものは意味かつ調子の段落となすものであります。ただ、切字のない俳句にも、名詞その他によって、自然に調子および意味の段落を見出せます。
「や」の効果について述べます。例えば現政府に対しての不満を述べる演説でも、「現政府は人民に対して〜」とすらすら喋るよりも、「諸君、現政府は……」としばらく黙って聴衆を睨んでいた方が、効果的な場合があります。
それは聴衆の方で、現政府への思いが込み上げてくるような場合です。そんなふうに、「や」は読者の頭に、ある事柄の感想を呼び起こし、観念を印象づけます。
(筆者感想:これは切字「や」についての説明ですが、切れ全般に通じるように感じました)
『俳句はかく解しかく味わう』
解釈が複数ある場合の解釈
何通りにも解釈できる場合に考えねばならぬのは、「その句の趣味に変化をきたすかどうか」ということである。句の生命さえはっきりしていれば、不明瞭な点があっても、趣味に影響は及ぼさない。この句の場合、景は様々に解釈できるが、その景に対して「もどかしや」と豪放な主観を持つところが生命である。
難解な句の解釈
其角の句は難解で『五集集』という句集を全部解釈し得る人はいないだろう。だが、わからなくても面白い句が相当数あるのが其角の偉いところだ。其角は世人の解釈には頓着せず、我らが抱く「ある感じ」を、句の調子の力で表している。たまたま手近な楽器をかき鳴らしたら、ちょうど感じが現れた。其角の句はそんな風に解するとよいだろう。
一方で、《源は柳なるべし春の水 蓼太》のように、曖昧なことを承知の上で思いつきだけを叙しているものがある。こうした句は一種の誤魔化しで、注意しなければならない。
事実と季題の解釈
出来事に季題が配合されている場合、事実を詮索するよりも趣で句を見るべきである。ハムレットが叔父を怨むようなのは秋の暮が相応しいだろうが、春暮の怨みは深刻ではなく、一点の艶っ気もある。そんな風に解釈は趣味から来る。
句の調子の解釈
この蕪村の句は、趣向が必ずしもいいわけではないが、調子が賤しくないために句が一等上になっている。調子というものは大事なもので、言葉つきに人間の品格が現れるように、句の調子で自然に品位が決まるのである。これは句作においても、句を見る時にも、よほど心に掛けて見分けなければならぬのである。
切字のない叙法の解釈
この句は切字のない一直線な叙法が、旅人がいつも絶えずにそこに休んでいることを連想させる。この句の作られた時から今日まで、その石には入れ替わり立ち替わり人が休んでいるような心持ちがするのである。
以上です。お読み頂きありがとうございました。
よいゴールデンウィークをお過ごしくださいませ〜!
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