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たくさんの俳人に会いたくなる『およばずながら』

最近、同僚がポケモンカードを始めた。
大会に出てみたら、「みんないい人だった!」と言っていた。
その話を聞いて、「わかる気がする。俳句もそうでさ……」と話が弾んだ。

そう、人が交流する嗜みは、和を尊ぶことが求められる。
いわんや結社の主宰ともなれば。

僕は、結社の主宰の先生と話したことは数回しかないが、どの先生も魅力的だった。結社の先生方は、自身の句業のみならず、「育成」的な側面も結構な割合担っているからだろうか。声のかけ方が上手な気がする。

そんな先生方と、「俳句総合誌の編集者」という立場で触れ合った思い出を記した本が、

である。去年刊行されたエッセイである。今はもう鬼籍に入られた先生方との思い出が読みやすく記されていた。

句作や俳句の種蒔きの上でも、参考になる言葉があったので、簡単にメモします。ホロリとするエピソードもたくさんありました。エッセイが好きな方にオススメです。俳句を続けて、たくさんの先生方に会ってみたくなる一冊でした。

今井杏太郎

「ここに着いて、何か感じたかい」
「目の前の海がキラキラと輝いて、綺麗だなと思いました」
「それを、俳句にすればいいんだよ」
そう言って突然、「まず、〈来てみれば〉とおくんだよ」と言い始めたのである。
「とりあえず、〈来てみればきらきらきらと春の海〉とでもしておくんだよ。それから、上五を変えてみる。〈さっきから〉とすると、時間の経過が分かる。〈きのふから〉とすればさらに時間が積み上がるだろ。中七は後日、再考すればいい。ほら、簡単だろ?」

p.56

「俳句の上五は、導入部。音楽でいえばイントロなんだ。あまり強いことばは使わない方がいい。そして、中七で自分の言いたいことを述べる。中七はサビの部分。最後の下五は季語を置いて、きちんと締めくくる。これが、俳句では一番安定する型なんだよ」

p.56

上田五千石

お孫さんが近づいてきた。そのころ三歳くらいだったろうか。五千石さんは抱き上げて開口一番「にっぽんが〜ここにあつまる〜はつもうで〜」と朗々と謳いあげたのである。

これは〈日本がここに集る初詣 山口誓子〉という俳句だが、こんな幼児のときから日常会話のように俳句を教えるのかと驚いた。

p.121

林徹

「私は俳句に深入りしたお陰で、少しはよい人間になれたのではないかと思います」

p.76

「あなたたちは、安易に原爆忌の俳句を作ってはいけません。なぜなら「雉」は広島の俳句結社なのですから」

p.79

廣瀬直人

(次の主宰は誰を考えていますか?という問いに)

「いちばん良いのは、二十歳くらい離れた人なんだよ。このくらい離れると、上の者は親身になって教え、下の者は謙虚に聞いてくれる。だからそんな人に継いでもらいたいと思っているよ」

p.72

草間時彦

「石井君、俳句のために、とにかく頑張ることだよ」。
「俳句のために」と言って励ましてくれた、最初の俳人が草間時彦先生だった。

p.24

飯田龍太

ともすれば楽をしたくなったり、手を抜きたくなるときや、すべてを投げ出したくなるときがあったが、「龍太先生が読んでいるんだ」と思うと、校了日まで全身全霊をかけて頑張ろうと、思い直すことができた。

p.67-68

皆川盤水

探梅行あとに蹤くことたのしめり  皆川盤水

先陣をきって進むのではなく、あとにくことを心から楽しんでいる先生の姿が想像できる。それは人生の余裕と呼ぶべきものだろう。

p.40 中略

藤田湘子

「鷹」の誌面の文字組や指定は、すべて湘子さんが指定されていた。とても美しい誌面で、私は常に参考にしていた。こうした編集技術の苦労話をされるときの湘子さんは、心から楽しそうだった。

p.19

飯島晴子

(昔の「鷹」を見ながら、飯島さんの句に印や手直しがあるのを見て)

「これは、何ですか」
「それはね。時間があるときや思いついたときに、自分で推敲しているの。いずれ句集を収めるときの、準備みたいなもの」
すごいな、と思った。

p.103

綾部仁喜

綾部さんは、芭蕉の〈秋近き心の寄るや四畳半〉を愛唱していた。芭蕉が三人と巻いた連句の発句である。人柄も生きざまも分かり合える身近な間柄の心が寄り合い、その息づかいの感じられる句座が理想だと、綾部さんは言われていた。

一見、閉じてしまうような見解に思えてしまうが、究極は、そのような少数精鋭の句座を経て、はじめて広やかな俳句の世界が見えてくるということなのだろう。「俳句は片隅でひっそり生きるのがふさわしい」というのが、晩年の綾部さんの俳句観だった。

p.146 編

田中裕明

大学も葵祭のきのふけふ  田中裕明
裕明さんのことを思うとき、最初に浮かぶのが、この句である。

あの日、裕明さんは〈京都という街〉に別れを告げに来たのではないだろうか。おかしな発想かもしれないが、裕明さんがきちんと京都に別れを告げたからこそ、京都の街の地霊たちが、あたたかく裕明さんを迎え入れ、今も彼を守り続けているのではないか。私が京都に行くたびに、裕明さんを思い出すのは、そのことを感じるからではないか。

p.150,157 編


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