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屋久島島人会 トビウオ漁について語る回 覚書


2024年8月24日に一湊公民館で開かれた島人会において語られた、屋久島の昔のトビウオ漁についての覚書です。主な話者は兵頭さん、真辺さん、渡辺さんです。聞き書きですので誤字あらばお知らせ下さい。


○その昔

一湊は明治期にカツオ漁で栄え、その後サバ漁、トビウオ漁と変遷してきた。その昔、一湊ではトビウオは食べる習慣すらなかったという。サバは生食することは少なく、ほとんどが加工品として発展した。

一湊ではトビウオは産卵後に獲っていた。メスが産卵した後にオスが精子をかけるが、海が白く濁るほどだった。一湊でトビウオ漁といえば、時期トビ漁のことである。

サバ漁は一年中行う。エサはタレクチという魚もしくは疑似餌。宮之浦ではサバ漁は行わなかった。


○漁について

魚見船とは、夕方に浦々を巡り、どの浦にトビウオが入るかをリサーチする当番である。海上から水中の様子を見てトビウオの動きを察知するには熟練が必要。見つけると村内に放送がかかる。3~4時ころが多い。

網を入れるタイミングなど魚見船の指示は絶対であり、従わないとその年の漁ができなくなるペナルティがある。厳しい統制あり。
産卵が終わって湾から出るトビウオを網で狙うのだが、そのタイミングは魚見船が松明で合図をする。その前に網を入れてはいけない。

船には、
オモテダチ
スミテ(潜み手、水中に潜ってトビウオの様子を見る)
トモロ(艫櫓、船全体の指示を出す)
ワキロ(脇櫓)
など、役割分担がある。

網を上げるタイミングが重要であり、見誤ると不漁になる。

トビウオ漁は夜の仕事であり、網を入れるのは明け方が多い。漁があった翌日は教室で寝ている男子がいた。

稀に昼に産卵することもあり、見つけるとご褒美があった。放送がかかって大急ぎで出港となり、その時は誰がどの船に乗り込んでもよかった。教室は先生しか残っていない状態となる。

一湊の家には、昼間に仮眠するための部屋がある。陽が入らず風通しの良い部屋である。漁が続くとしばらく寝られないこともあった。

最大でひと網で5~6万匹入ることもあった。そこまでの入りとなると船は真横になるほどに傾く。重すぎて上がらない場合は網の端を少し切って魚を出す。真ん中を切ってしまうと裂けて全部出てしまう。稀に転覆する船もあった。

20万越し、30万越しの漁となったら大漁旗を掲げて帰港し、途中の浜恵比寿の前でお礼の儀を行う。

通年の漁獲高のベスト5は常に同じ船であった。成績のよい船には腕のたつ漁師、若い漁師が集まるからであると思われる。

志戸子では船にに乗っている半分くらいが女性であった。(戦後も。)一湊と宮之浦では船に女性は乗せない。船の神が女性だからではないか。船魂様は船首または中央に安置されていた。折々で焼酎を撒くのは船首。

一湊では寝宿(ねやど)といって、村全体で若者を育てる仕組みがあった。

昭和28年ころまでは伝馬船で漁を行い、その後動力船に変わっていった。二艘が一組になるが、初めは大きな動力船で伝馬船を引っ張って漁場に行き、その後片方が動力船に、ついには二艘とも動力船になった。

昭和30年(1955年)ころにはマルハ(大洋漁業株式会社)の冷凍船が各港を回り、水揚げされたトビウオを回収した。塩干に加工され流通すると思われる。

最も獲れた時代は1匹1円まで安い相場となったこともある。

使った網は現代のような化学繊維ではなく木綿であったので痛みやすく、使用後は浜で干す必要があった。雨が降ってくると総出で取り込む。男子は網を、女子は干してある魚を取り込むのが習わし。

浜で塩干(えんかん)にした分は、自家消費する分である。干されている魚を盗んで売る悪ガキもいた。

○トビウオに関する風物詩

トビウオの季節は田植えの季節と重なり、鹿児島では田植え後のご馳走、もてなしにトビウオの塩干が喜ばれるところも多い。

一湊ではホトトギスをトッピョ(トビウオのこと)鳥と呼んだ。島へ渡ってきて鳴くのがトビウオの季節と重なるため。
またヒメヒオウギスイセンも同様に同じ季節に咲くためトッピョ花と呼んだ。

産卵後のトビウオは油っ気が少なく塩干に向いている。本枯の鯖節も痩せたサバがよい。屋久島より南で獲れたサバは脂が少なすぎてバサバサになり、北では脂っこくなりすぎる。屋久島近海で獲れたサバはちょうどよい。


○その後のトビウオ漁

島内一周道路(西部林道を含む)が昭和44年(1969年)に完成すると、流土で海は真っ茶色になった。

トビウオ漁のピークは昭和30年(1955年)ころであり、昭和40年(1965年)ころから陰りはじめ、昭和50年(1953年)ころにはトビウオ漁は下火になっていた。産卵にやってくるトビウオ(時期トビ)の漁は終焉を迎える。

重ねて、昭和40年(1965年)ころから島を出て東京や大阪へ行く若者が増加。昭和50年(1975年)ころ、一湊には鉄工所が2軒、医院が2軒あった。

近年は藻が少なくなった。トビウオの不漁と関係があるのか。
その後、旧屋久町の与論島からやってきた人々を中心に、胴引きで沖で漁をするようになった。

一湊の漁師は産卵前のトビウオを獲ることは自然の循環を壊すことになるので行わないことを誇りと考えている。
トビウオの寿命は1年で、産卵後に死亡する。

諏訪之瀬島では今でも時期トビが獲れ、塩干を出荷している。


○余談

白谷線の牛床近くから屋久島高校の上の現在浄水場になっている水路はもともと営団地区の田の灌水用だったが、発電にも使っており、一戸につき60W電球一個ぶんくらいの供給を行っていた。

屋久町の郷土誌には職業に関する記述があり、各集落に三味線や太鼓を生業とする人がいたことを記録している。

各集落や歌い手で個性があるはんや節。ツジヒサオさん主催で行われたはんや節大会の第一回は旧シーサイドホテルで催された。


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