学生時代、夏のバイトと言えば引っ越しだった。
いつもはオフィスや個人宅の引っ越しでみっちり体を酷使する現場が多かったけど、その日は珍しく「荷物を一つ運ぶだけ」という格別に楽な現場だった。コピー機だったか、やや大きめの機器を四人で「わっせわっせ」と広い洋間に運んでおしまいだった。
だから午前中の比較的早い時間のうちに終わってしまった。あまりにも早く終わってしまったので、みんなで時間をつぶすことになったほどだ。現場の親分みたいなおじさんに「自由にしていいぞ。その代わりこの近辺にいろ」と言われた。
広尾だったか渋谷だったかうろ覚えなのだけど、そこは高級な邸宅ばかりある住宅街で、僕たちはどこかの国の大使館に荷物を届けたのだった。
自由にしていいと言われても作業服で気軽に入れる場所なんてなかった。喫茶店でもあれば良かったけどどうにも見当たらなかった。
太陽の位置がどんどん高くなり、大使館の敷地内にある大きな広葉樹の葉っぱの影が色濃くなっていく。
所在ない僕は木陰になっているところで仰向けに寝っ転がって空を眺めていた。
するとそこへ突然シャム猫が現れた。
音も無く出現して僕の顔を覗き込むようにしたので驚いた。
体を起こしても立ち去ろうとせずこちらをじっと見つめているのだ。宝石みたいなオッドアイでこちらをじっと見つめ、やがて瞬きを一つしてゆっくりと大使館の建物の方へ歩いていった。
猫の姿が見えなくなると僕はまた両手を頭の上で組んで寝っ転がった。大使館で飼われてるのかそれとも近所の家で飼われてるのか…。
木の葉の間から覗く夏空を眺めながらさっきのシャム猫のことを考えていたらいつの間にか寝てしまっていた。
大使館から宝石が盗まれたぞ! 怪しい者はいないかと肌の色が浅黒い逞しい警備員たちが騒いでいる。警備員の一人が僕を見て「あそこにいたぞ!」と叫ぶ。あっという間に取り囲まれてしまったので、「宝石なんて知りません」と慌てて弁解した。しかし信じて貰えない。「そう言えばさっきのシャム猫の目が宝石みたいでしたよ」と言うと、警備員達は「お前はあの猫を見てしまったんだな」と色めき立つ…。
「ああそうか。作業着を着て地べたに寝っ転がっている人間は、ゆったりと大使館を徘徊している気品あるシャム猫に、信用の面で劣っているのだな」と思いながら目を覚ました。
どれぐらい寝てしまったのかわからないが、一緒に来た引っ越しの面々は僕を置いてとっくに帰ってしまったらしかった。
仕方がないので僕は電車に乗って自分の家まで帰った。
もうアルバイト代の事なんてどうでも良くなっていた。
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