クリスマス。高揚する人々が行きかう煌びやかな大通り。一軒だけ鄙びた老舗ホテルがひっそりと建っている。そのホテルの裏手の地下に小さなバーがあった。地下へ通じるこぢんまりとした階段がまるでお似合いの髪飾りみたいにその場に馴染んでいた。
そこは別の世界に旅立つ前に誰もが立ち寄る特別なバーだった。
空港のラウンジみたいな場所だと思って貰えればいいだろうか。
ほら今も一人の年老いた噺家猫が階段を下りていく。
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狭い階段を地下に降りていく。「そう言えば昔、師匠に連れて行って貰ったバーもこんな風に地下に降りたな」と思いながら入口に立ったちょうどその時にハチワレ猫のバーテンダーが「いらっしゃいませ」と扉を引いて中へ案内した。
コートを預けてカウンターのストゥールに腰をかける。店内は薄暗くてすぐには目が慣れないがどうやら客はいないようだ。よく耳を立たせないと聴こえない音量でBGMがかかっている。メロディーに乏しい、話し声みたいなBGM。
「さて何に致しましょうか」先刻のバーテンダーが注文を聞く。
「八海山を冷やで」
噺家猫はそう言った後で「こういうところにはないかな」と後悔したが、バーテンダーは鈴がかすかに鳴るような笑顔で「かしこまりました」と答えた。
ほどなくバーテンダーが酒を持ってきた。グラスが江戸切子だったのも面喰ったが、噺家の一門の紋が模様に入っていてさらに驚いた。
口をつける。
いつも通りキリっとしていて旨い。
「グラスのことを聞くのは野暮だな」と独りごちた。
バーテンダーはやはり先ほどの笑顔で「なにか?」という顔をしたまま黙っていた。よく見ると首に小さな鈴を付けている。
店内のどこにも時計がないなと思っていると急に大勢の笑い声がした。噺家猫が耳を立てると、その理由がわかった。先ほどから流れていたBGMは音楽ではなく落語だったのだ。
しかも自分が演っている落語だ。
「『替り目』ですね」バーテンダーが云う。
「お、あんちゃん、落語聴くのかい?」
「少しだけですが。この噺は、酔っ払った旦那が奥さんに買い物に行かせてる間に、奥さんへの日頃の感謝の気持ちを吐露する場面が印象的でした」
噺家猫がうんうんと頷く。笑い声がまた聞こえる。
その笑い声の中に、確かに妻と息子、娘、孫たちの声を聞き取れた。
「お客様、そろそろお時間のようです」
「ああ、酒、旨かったよ」噺家猫の目から涙がこぼれた。
バーテンダーは変わらぬ笑顔で「ありがとうございます」と言った。
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