GReeeeNがニューアルバム「ベイビートゥース」を出す前に前作「ボクたちの電光石火」を振り返る

過去のメモを見ていたら今年1月に発売したGReeeeNのアルバム「ボクたちの電光石火」を聴いていたときの分析・考察が出てきた。

当時書いたのはいいものの僕に特別音楽的な素養があるわけでもないしやっぱり恥ずかしくなってアップしなかったのだが、あらためて読んでみるとわりとこの間書いたツアーの感想にも通じるGReeeeNのメッセージが入っているのかなと思ったので、GReeeeNに対する理解を深めるためにも少し内容を書き直しながら改めて考察してみた。

基本的にゴリゴリの主観で書かれているし、ところどころポエムっぽくて気持ち悪いのはどうか気にしないでいただけるとありがたい。



GReeeeN10枚目のアルバム「ボクたちの電光石火」。

「ボクたちの電光石火」はN H K連続テレビ小説の主題歌となった「星影のエール」を除く全ての楽曲が今作のために書き下ろされたものだが、長年GReeeeNを聴き続けているファンであるほど違和感を覚えるアルバムではないだろうか?

コロナ禍でのメッセージを込めたアルバムということもあり、全体的にいつものGReeeeNのような「明るく楽しい」曲調では決してない。というかむしろ暗い。

僕が思うに、みんなコロナ禍の暗闇の中を歩いているなかでは、いつものGReeeeNのような前向きなメロディや歌詞だとメッセージは届かないし、受け入れられない。

そんな人々の心に寄り添った結果、わずかに灯る電光石火、夜明けまでの道を踏み外さない程度のアカリとなるアルバムを作ろうとしたのではないだろうか。

ただどの楽曲にも共通してその場にとどまることへの警鐘と、変わっていくことに対する肯定というGReeeeNらしいメッセージは盛り込まれている。打ちのめされて傷ついて、倒れて泥だらけになっても何度も立ち上がって、このコロナ禍の社会に、人間に、生命に、必死に抗う。

そんな10作ものアルバムを経てなお予定調和や既定路線には乗らず、未完成で未知の可能性に挑戦し続ける、非常にGReeeeNらしいアルバムともいえるかもしれない。


♯1.おまじない

「痛いの痛いの飛んでいけ」そんなおまじないを誰しも一度は唱えたことがあるのではないだろうか?

おまじないとは多くの場合は誰かの幸せを願ったり、危険から身を守ってくれるよう祈りをこめてかける魔法だ。

コロナによって生活様式が一変して、逢いたくても思うように逢えなくなった。だけど、そんな時間があるからこそ、「今あの人は何をしているだろうか」「次に逢った時はどんな話をしようか」と想いを募らせ、一緒に過ごす時間をより大切にすることができる。

そしてそうやって一瞬一瞬を大切にしていくことで、これからもたくさんの「はじめて」に出逢っていける――そんな祈りこそがGReeeeNがかける「おまじない」なのだろう。

♯2.星影のエール

全体的な考察は以前に書いたが、「愛は時間も空間も超えられる」というのはGReeeeNが「キセキ」でも主張している大きなテーマだ。その愛が届くのは親しい相手だけでなく、1000年後に生きる見知らぬ誰かでもあり、そしてそんなたくさんの愛で紡がれていく物語のことを人は歴史と呼ぶのかもしれない。

♯3.相思相愛

どんなに運命的な出会いではじまり、どんなに相手のことを大切に想っていようとも、愛は現状維持の免罪符じゃない。長年連れ添った夫婦でも相手のすべてを知ることはできないし、相手にすべてをわかってもらうこともできない。

でも、だからこそ、相手の素敵なところを見つけるたびに胸をときめかせ、心躍らせることができる。

心のすれ違い――心の重ね合わせ――どちらもお互いを知るためには大切なことで、その繰り返しがあるからこそ糸を編むように物語は紡がれていき、そうやって2人が過ごした日々を振り返り、別つ日に初めてそれが愛だったと知る。

もうね、ここまでド直球のラブソングはそうないですよ。

そんな曲を聴きながら、愛を言葉にもできない、行動にも移せない己をただ恥じる。「あー、これができないから僕は彼女がいないんだなあ…」と独身男性のハートがめちゃくちゃエグられる。つらい。

♯4.ゆらゆら

常に理想の自分であり続けるというのは難しいし、色々な考え方に触れることで日々少しずつ人は変化していく。

僕は2年前のライブで数年ぶりにGReeeeNを聴いた時にその変わらなさに感動したけど、でもそれは変わらないことがいいという話じゃない。

絶対に変えちゃダメな部分時代に応じて変えていかなくてはいけない部分があって、例えばGReeeeNなら「楽しんで音楽を作る」というのが変えちゃダメな部分だろうし、「世の中生きててもなんの意味もねえ」みたいな曲を書き始めたら今まで信じてついてきた人たちはなんだったのって話になる。

逆に「キセキ」「愛唄」みたいな曲を作ってくれ!と言われてもそれならキセキを聴けばいいわけで、焼き直しや予定調和じゃない、最近だと髭男の「Cry Baby」みたいに「この人たちこんな曲も書けるんだ!」と聴く人をアッと驚かせるような新しいアーティスト性を最新曲に注ぎ込んでいくことが変えていくべき部分ではないだろうか。(フレデリックみたいな例もあるから何とも言えないが)

とにかく、変化を受け入れることで幅広いモノの見方ができるようになるし、それは他の誰かを受け入れることにもつながる。

そうした考え方が広がっていくことで少しずつみんなが生きやすい世の中になるのではないか、そんな願いが感じられる曲だと思う。

♯5.たそがれトワイライト

この曲はこのアルバムの中で僕が特に好きな曲なのだが、歌詞に出てくる「アフォーダンス」とは認知心理学における概念で、一言で言えば「環境が人に対して与える意味や価値、行為の可能性」を指す言葉だ。

僕自身もなんのこっちゃわからないので具体例を挙げると、「椅子」は「座る」という価値以外にも、「台として高いところにある物を取る」「薪にして火にくべる」など無数の使い方を提供(アフォード)している。

「目の前に置かれた椅子」に対して「あなた」がどんなことができるかというのは無限にあるわけで、その存在する可能性をアフォーダンスと呼ぶのだ(あってる?)。

ただ、どんな可能性を見つけることができるかはその人次第だ。見つけたとしてもうまくいく保証はないし、挑戦したことに後悔することもあるかもしれない。

今、コロナ禍という環境は僕たちに無数の可能性をアフォードしている。

そんな僕たちに、嘆いてばかりの日々を続けるのか「お前はどっちだ」とGReeeeNは問いかける。光の方へ、きっと飛び超えられると信じて。

そんな、歌詞もメロディも新境地を目指した今作のGReeeeNを一番色濃く表現した曲ではないかと思う。

♯6.半透明

普通、性格というのは「裏と表」「陰と陽」「二重人格」など二面性で表現されることが一般的だ。

この曲ではそうではなく、半分隠した私のことを「半透明」と表現しているところが面白いと思う。半透明といっても少し透けているだけなのか、ほとんど見えないくらいなのか…隠している本人でさえ、自分が相手にどれだけ見えているかわからない。

不透明な、ありのままの自分に近づくほど嫌われてしまうかもしれないし、透明な、本来の私とは違う私に近づくほど虚像の自分だから愛してもらえているのではないかと不安を感じてしまう。

勇気なんて振りしぼることなく、相手が全てを理解してくれたらどれほど楽だろうか。でも、そんな身勝手さもすでにこの想い人は理解してくれているのだろう。

ただ理解したうえで一緒にいてくれて、女の子(たぶん)がアイマイな関係に悩んでるっていう状況は…相手が相当な恋愛上級者な気がして少し心配になるけど大丈夫だろうか?笑

♯7.ボクたちの電光石火

今、誰もが先が見えない暗闇の中を、進むべき道を探して必死にもがいている。だがそれは何もコロナの世の中に限った話ではない。そもそも人生に何が正解かなんてないのだ。正解なんてないのに、多くの人々は「ちゃんとしなさい」と正しい生き方を求めてくる。そんな世の中の「正論」によって否定され、傷ついている人もいることだろう。

アルバム全編を通して夜明けを待ちわびていた「ボクたち」。

「もうすぐきっと夜が明けるはず」

「夜が明ければきっと世界は良くなるはず」

でも、この物語を辿っていく中で、自分から朝日を迎えに行かなければ、そこに光は差し込まないということにもう気づいたことだろう。

痛くても、辛くても、それでも諦めず立ち上がる勇気を持ったその時、自分自身も輝き、誰かを照らすことができる。

そうしたボクたち一人ひとりの灯した火こそが、この不安が渦巻く世界を夜明けへと導く大きな光となるのではないだろうか。



以上、アルバム「ボクたちの電光石火」収録曲の歌詞について僕なりの解釈を述べてきたけど、基本的にGReeeeNはアルバムにコンセプトをあまり持たせないそうで、一貫したテーマがある!というのは僕の主観でしかないことは付け加えておく。

ただ今までのGReeeeNとはやっぱり毛並みが違う感じはして、「コロナ禍でどう生きるか?」を問いかけるちょっと哲学的な側面だったり(HIDEさんのラジオを聴いてる感じめちゃくちゃ哲学書読んでそう)、曲調についてもバラードともちょっと違うしっとり聴かせる感じというか、聴けば聴くほど色んな見え方がしてくる個人的にはとても好きなアルバムなので、ぜひ新アルバムが出る前に改めて聴いてもらいたい。

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