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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載14 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ①

<74年もデモテープ制作でスタート>

1974年に入り、タケカワは奈良橋と共作した新曲(連載13参照)のデモ録音に早速取り掛かる。『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1の19~22曲目に収録されている4曲分は『TAKE & YOKO』と題され、年始の1月に録音されている。このときは長兄・芳弘が住んでいたマンションで、彼が所有する4チャンネルのオープンリール・テープレコーダーを使用。かつてはギタリスト・石川鷹彦の自宅に訪問しないと出来なかった多重録音が、自分の兄の部屋で出来るようになり、それから数年はピアノも置いてある兄の部屋がデモテープの録音場所となる。

上記の備考は、CD『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1のライナーノーツ P.P 2~7 を参照・引用

「PASSING PICTURES」、「I CAN BE IN LOVE」のピアノと歌、コーラスを録音し終えたタケカワは、余った1チャンネルでちょっとした“遊び心”を入れる。芳弘の部屋にあったチェロを自分も弾いてみたくなり、アドリブで弦パートを追加したのだ(チェロをダビングした「PASSING PICTURES」のデモ音源は、“デモシリーズ” VOL.1の特典CDに収録)。タケカワはそれまで一度もチェロを弾いたことはなく、幼少時に習っていたバイオリンの要領で弾いたものの、彼自身が言うには「音程が不安定」とのことで、チェロ入りのテイクはボツにしたという。とはいえ、同年のデビューアルバムのレコーディング中に、ストリングスのアレンジも手掛けることを考えると、これが契機になっていたのかもしれない。

<エルトン・ジョンと進級試験>

そのデモテープが完成してすぐ、レビュー・ジャパンから思いがけない話を知らされる。前述の「PASSING PICTURES」と「I CAN BE IN LOVE」を改めてスタジオで録り直して、全米チャートトップのシンガー・ソングライターであるエルトン・ジョンに聴かせるという。レビュー・ジャパンの親会社であるMCAが本国でのエルトンの著作権を管理している縁で、74年2月の日本ツアー(2月1日~13日、全11公演)で来日するエルトンにデモを聴かせて、推薦コメントを貰おうというもの。作家として、そしていずれはシンガーとしてレコードデビューしたときの、楽曲の箔付けのみならず、MCAを通じて海外の音楽マーケットに売り出す際のアピール材料にもなる。タケカワを含め、スタッフたちは色めき立った。

しかし、レコーディングの日程で問題が発生する。東京外大の3年への進級試験が、レコーディングが予定されている2月第2週と重なっていることだった。当時、東京外大の英米語学科は進級が非常に難しいといわれ、2年進級時に1/3、3年進級時にさらに1/3が落第すると言われていた。2年進級時は辛うじて「良」と「可」で乗り切ったものの、必修の語学6科目で一つでも「不可」が付くと落第になる状況だった。試験は午前中のみで、レコーディングとの重複だけは避けられたが、録音本番までアレンジに手間取ったため試験期間中はほぼ毎日が徹夜。なんとかテスト6科目は受けるだけ受けたという。

週末の2月9日(土)にレコーディングされたデモテイク音源は、2017年にCD&DVDの4枚組セットでリリースされた『PASSING PICTURES BOX』に3パターン収録されている。スタジオミュージシャンによる演奏で、タケカワの証言では、サディスティック・ミカ・バンドのメンバーだった、当時20歳の高中正義がエレキギターで参加しており、「1時間遅れてやって来て、ガー!と弾いてそのまま帰って行ってしまった」という。まだこの段階でのアレンジはごくシンプルなもので、ストリングスのフレーズはメロトロンで代用。あくまで歌のメロディを強調する仕上がりになっている。

1974年2月9日録音のデモテイク音源(3パターン)を収録したCD『PASSING PICTURES BOX』(サブスク未解禁)。作曲時の宅録デモ音源を収録した『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』とは別音源となる。

試験との両立で苦労しながら完成したデモテープだったが、結局は2月13日まで日本に滞在中のエルトン・ジョンに聴いてもらうことは叶わなかったという。そして、大学の進級試験は「可」が多かったものの単位はクリア。なんとか落第は避けられたため、その後のレコーディングに専念できる環境となった。

<デモ制作で直面するアレンジの“壁”>

エルトン・ジョンからの推薦コメントは得られなかったものの、引き続きデモテープ制作は続行。レビュー・ジャパンは原盤制作も行っているため、詞・曲のデモとしてだけではなく、いずれはレコード化することを視野に入れての、アレンジも込みで録音を進めていく。そして後のデビューアルバム収録12曲のうち、9曲までがこの時期にデモ録音が行われた。前述の『PASSING PICTURES BOX』では、3月13・15日と4月24日録音の12パターンを聴くことができるが、この期間中に「TRULY ME」や「NIGHT TIME」「LUCKY JOE」「HAPPINESS」などは歌詞が全面的に変更され、アルバムに収録された歌詞と同じものになったことが確認できる。

『"Rediscoverd" CD』1と2の収録曲を、録音日付順に並べ替えた一覧表。

タケカワは当初、自分の曲ぐらいは自分でアレンジをしようと考えていたが、あくまでそれは弦楽四重奏を曲のどこかに挿入するぐらいで、基本的にはバンドサウンドを想定していた。前述した2月に2曲を録音した際、簡単なイントロや途中の各パートのフレーズ、基本的なリズムパターンとコードはタケカワが譜面に書いて、スタジオミュージシャンが演奏したものの、自分自身ではまだ満足のいくものにはならなかった、と述懐している。

この3~4月のデモ録音にしても、作曲時に残した自作デモや当時のライブで演奏するときのアレンジを再現するパターンが数曲あった。その過程で、大幅なアレンジ変更が必要だと気付かされることもあったようだ。例えば4月24日に「TRULY ME」を再録音したデモの出来を、タケカワはこう自己分析している。

“ただコードを書いただけの譜面ではアレンジにならないことを思い知らされたデモ。前より、悪くなってしまったので、焦ったのを覚えている。このデモの結果、スタジオ録音の場合は、細かく演奏してもらうことを指定しなければダメだということがわかった記念すべき録音だ。”

CD『PASSING PICTURES BOX』ブックレット P.56/2017 T-time

その「TRULY ME」も、ジョニー野村が考えたドラムパターンから始まるイントロを付けたり、バースの1小節にコードを3つ入れて(D G D|D G D|Bm Em Bm|Bm Em Bm|Em F#m Em|Em F#m Em|A7 Bm7 A7|A7 Bm7 A7)、リズムとノリを出すようにして、曲の形を変化させていったという。

そしてアレンジャーとしてのタケカワが苦心するのがストリングスとホーンセクション。このデモ制作期間においても、3月に再録音した「PASSING PICTURES」の時点ですでに、総勢14名のストリングス用のスコアを書いて、デモテイクに反映させている。過去にバイオリンを弾いていた経験や、和声学を学び弦楽四重奏のスコアを書いた経験が、編曲で活かされたといえよう。しかし、金管・木管楽器の類は未経験。“ブラスロック” ジャンルの代表的バンド、シカゴの初期アルバム『シカゴの軌跡』(1969)『シカゴⅡ』(1970)を高校生の頃に愛聴していたことはあったが、バンドでコピーをしたこともなかったため、ホーンのパートを手探りで編曲していくことになる。

「バイオリンをやってた関係で、弦をアレンジするのは簡単だったけど、ブラスは大変でしたね。吹奏楽はやってなかったので。最初のアルバムの時に、当時のやり方ではリズムセクションをまず録る。で、仮歌、そこからソロだなんだって決まっていく。そうなると1番最後にブラスを足したりするんですね。で、プロデューサーにブラスいれない?って言われて、良いですよって言っちゃって。(中略)最初のアルバムは絶対全部自分でアレンジするって決めてたから、やったことのないブラスが来て困惑はしました。でも当時かっこいいって思ってた、カーティス・メイフィールドを参考にして音の合わせ方とリズムの使い方を学びました。」

『THE MUSIC OF NOTE』2015年12月26日放送回/FM COCOLO

3~4月のデモ録音の段階ではまだホーン・アレンジを行った形跡はないが、アルバムのレコーディング中に管楽器のアレンジをしたときのエピソード。タケカワは管楽器の譜面を書くにあたり、基本的な楽器の音域・音程は把握していたが、「HAZY NUN」でオーボエのフレーズを入れようとして、間違ってファゴットで出すような低い音域のスコアを書いてしまう。オーボエ奏者がヘ音記号で書かれた譜面を一見して「これ低過ぎて吹けないんだけど」と言ってきたため、その譜面のフレーズを2オクターブ高く移調して吹いてもらい、その場を乗り切ったという。

デモテープの録音はいったんこの4月で終了したが、夏以降のレコーディングでも、新米アレンジャーの苦闘は続くことになる。

<ミッキー吉野>

デモ制作はひと段落したが、アレンジの問題が浮かび上がったのも事実だった。各パートの譜面を書いただけでは、自分の思い描くサウンドが具現化しないことを痛感させられていた。何より、スタジオミュージシャンをまとめ上げて、思い描くサウンドを引き出す能力がアレンジャーには必要だった。そんな中でジョニー野村がふと、うってつけのアレンジャーがいるとタケカワに話した。

「ただ、彼は、今、アメリカにいるんだ」
「それじゃ、しようがないじゃないか!」 僕はがっかりして言った。
「いや、もうすぐ帰ってくることになっているんだ。ともかく帰ってきたら、最初にオレのところに連絡がくるはずなんだ」
「なんていう人だい?」
「ミッキー吉野って、知ってる?」

『タッタ君 ふたたび』下 P.296 タケカワユキヒデ著/2013 T-time

ミッキー吉野。元ザ・ゴールデン・カップスのキーボーディストだということは、日本のバンドには興味のなかったタケカワでさえも知っていた有名人である。ミッキーはカップス脱退後に、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンのバークリー音楽大学(Berklee College of Music)へ留学していたが、この74年5月に卒業したばかりだった。

ミッキー(本名・吉野光義)は1951年12月13日、横浜市磯子区の出身。4歳の頃からピアノを習い始め、映画『愛情物語』(1956)を観てピアニストに憧れたという。小学校低学年で、テレビ番組『ザ・ヒットパレード』やラジオから流れる海外の楽曲に夢中になったのはタケカワと似ているが、ミッキーが好んだのはエルヴィス・プレスリー、リッキー・ネルソン、レイ・チャールズといった、ロックンロールやリズム&ブルース(R&B)の楽曲。当初はクラシックピアノを習っていたミッキーだが、中学に入学すると、地元の横浜でオルガンプレイヤーとして数々のバンドに参加するようになる。

高校2年だった1968年6月、グループサウンズ(GS)の人気グループであるザ・ゴールデン・カップスに正式メンバーとして加入。同じ横浜出身のカップスのメンバーとは元々から交流があり、カップスのライブ中に飛び入りでオルガンをプレイすることもあったという。カップスは同年4月にシングル「長い髪の少女」が大ヒットするも、サイドギターのケネス伊東がビザの関係でハワイに一時帰国することが決まっていた。そのタイミングでの新メンバー加入だった。なお、カップス加入当初はイタリア "GEM" 社製のコンボオルガンをプレイしていた。

68年9月リリースの「愛する君に」が、ミッキー加入後初めてのシングル楽曲で、これも連続ヒットとなる。カップスは歌謡曲路線のシングル曲を発表していたが、普段はほぼ毎日のように、銀座・新宿の“ACB”、池袋の“ドラム”といったジャズ喫茶でライブを行っていた。ステージで演奏するのはアメリカ、イギリスのR&B、R&Rのカバー。高い演奏力は当時のGSバンドの中でも群を抜いており、ミッキー自身も“弱冠16歳の天才キーボーディスト”として注目される。69年に国内バンドでは初めてハモンド・オルガンを導入。そして70年にはカップスという枠を超え、成毛滋(ギター)寺川正興(ベース)田畑貞一(ドラムス)デイヴ平尾(ヴォーカル)の編成で、国内ロック~ジャズ界をクロスオーバーした第1期 “ミッキー吉野グループ”も結成。そして同年にはミッキー自身初のソロ・アルバムを制作(当時は未発表、2008年に『Me and '70s』として初CD化)。まさしく当時の国内キーボーディストのトップランナーとして名を馳せた。

カップス本隊もまた、GSブーム終焉以降も “ニューロック(アートロック)” バンドとして国内音楽シーンの最先端を走り、1971年1月には1曲を除き全曲オリジナルのスタジオ録音アルバム『ザ・フィフス・ジェネレーション』を発表。しかし、前年末をもってミッキーはカップスを脱退することになり、71年6月に渡米してバークリー音楽大学の夏期講習に参加。7週間の講習終了後に器楽演奏科(Instrumental Performance:ピアノ専攻)と作・編曲のコースへ正式に入学。飛び級で2年生からのスタートだったという。

ミッキーが3年間の学生生活の卒業を控えた頃に、イギリスのLeeds Music Corporation社長、ルゥ・レヴィーの息子にあたる同級生を通じて、同社の親会社MCAの社長、サルヴァトーレ・T・キャンティアを紹介されている。キャンティアは日本支社のレビュー・ジャパンにミッキーを推薦。また、ミッキーが中学生時代に結成していたバンド "THE CHOSEN FEW"(チョーズン・フュー)のドラマーだった、ジョン・アギナルドの当時の家庭教師がジョニー野村だった縁で、アギナルドを間に挟んだエアメールのやり取りで、ジョニーがミッキーにアプローチを掛けていた。


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