フェミニズム
欅坂46が好きだった時、『持続可能な魂の利用』という本には欅坂46だとしか思えないアイドルが出てくるということをインターネットで見ていたのだが、その本をつい最近図書館で見つけた。その本の中のフェミニズムの内容が面白かったので、他のフェミニズム関連の本も読んでみた。
今までフェミニズムというものをよく知らなかったが、3冊の本を読んで、男女平等を目的とした現代のフェミニズムというのは、数世紀に渡り続いてきた男尊女卑の名残である一部の社会制度、法律、そして女性の社会的役割を批判し変えることなんだと思った。それぞれのフェミニストで意見は違うようだけれども、ちゃんと研究している人たちにとってのフェミニズムというのはおおかたこのようなことだと思う。
現在の日本において、女性が一見明白な弱者ではないし、女性差別もあからさまではない。むしろ女性優遇が目立つかもしれない。自分自身も女性差別を受けたというような記憶はない。だけれども、フェミニズムについての本を読んで、女性だという理由のみでの差別や格差というのはまだ日本社会の中に残っていて、当事者になって初めて違和感を覚えるんだろうということに気づいた。女性差別や男女格差が他の社会問題に優先して解決されるべきかはおいといて、知っておくと自衛になるし、何より実際に苦しんでいる人を否定することを防げる。
持続可能な魂の利用
『持続可能な魂の利用』では、「おじさん」によって疲弊する人たちが出てきた。「おじさん」といっても文字通りのおじさんではなく、若者や女性も含まれる。「おじさん」たちがするのは、他者を見下げる対象にすることだ。他人を性的対象として捉え人格をないがしろにしたり、マウントを取ったりすることをいう。そして、男尊女卑が数世紀も続いてきた名残で、「おじさん」は女性を対等な人間ではなく男性の性的対象である劣っている存在として見る。そして、生まれた時からそういうものが蔓延っている社会にいる人はそれが異常な状況だと気づけない。当然ながら一番被害に遭いやすいのは、反抗することが困難な未成年の子たちだ。
この本に書かれているように女性を性的対象として捉え、相手の気持ちを考えもせずに、性的犯罪やセクハラをするのもれっきとした女性差別なのだと気付いた。女性が男性に対して同じようなことをしたり、女性が女性に性的な侮蔑を言ったりするのも性的差別なのだろう。アイドルやインフルエンサーに対する気持ち悪いコメントやDMも女性差別の表れといえるのかもしれない。そして、同じ人間である相手を欲望の対象としてしか見ない価値観は特異であるということが広まらない限りこの女性差別は続くんだろうと思った。
愛という名の支配
『愛という名の支配』では、男性優位、女性の隷属化というものが社会的構造や社会規範の中に組み込まれていて今もその片鱗があると述べられていた。それらは文化に馴染みすぎて、人々は当たり前のようにあるそれらを疑うことが難しいらしい。
一昔前の社会は、女性が経済的にも精神的にも自立せず男性に依存したり尽くすように作られていた。それの象徴的なものが結婚制度であり、妻は夫の従属物としての権利しか持てないようになっていた。そういう法律や社会構造に加え、何回もの妊娠や服装により動きずらくさせ、貞操感などの道徳的規範や結婚を受容する「女らしさ」を教え込み、男性がいないと生きていけないようにさせたらしい。歴史に詳しくないが、概ね真実だと思う。
妻である母親は子供に、明示的または黙示的に「女らしさ」を教える。その「女らしさ」というものは今でも残り、優しく可愛く素直で野心やリーダーシップを出さない女の人が社会的に承認されやすい。「女らしさ」という性質は、1人で生きていくために役に立つものではなく、他人からの承認があって価値があるものである。「女らしく」育てられた場合、他人にとって便利な役割が適すようになり、強さや決断力を持つように「男らしく」育てられた場合に比べ経済的や社会地位的に劣りやすい。そのような場合、多くの女性は経済力のある男性との結婚を望み、妊娠や家事を甘受することで、より経済力に差が出る。また、「女らしさ」とは相手に遠慮したり相手を優先することと同じようなものであり、「女らしい」振る舞いを受けた人は感謝したり好ましく思っても尊敬することはほとんど無い。
この本に書いてある内容は、現実かどうか確かめようはないにせよ、納得できた。今の社会において経済力があるよりも愛されるような女性が憧れられ、「女らしく」なろうとするのが主流だと思う。また、「女らしく」し結婚や妊娠をするという道を辿ることで、平均的な女性と男性を比べた時に、女性の方が経済的に劣るような社会構造ではある。資本主義社会ではこのような場合、男性の方が立場が強くなり、家庭内外で対等になるとは言い難い。そのため、女性が「女らしさ」という社会規範の通りに生きることのデメリットに気づき、女性が経済的に不利な状況になる法律や仕組みを見つけたら変えることが、男女平等に繋がるんだろうと思った。
僕の狂ったフェミ彼女
『僕の狂ったフェミ彼女』は、フェミニストになった彼女を、可愛らしくお洒落して結婚を望むような女の人にさせたい男の人の視点が描かれていた。フェミニストの主張を男性全体を性犯罪者予備軍として敵視するようなものとして捉えたり、男には男特有のさまざまな生きずらさがあるのにそれを女は認めないと憤る。彼女のことが好きであるにも関わらず、自分が見てきた可愛らしい振る舞いをする女の人とは違う彼女を認めない。良いとされてきた、彼女を女の子扱いし可愛がることをして、彼女が不満に思ってるのを無視して悦に入る。
この主人公の男の人は女性差別をしているわけではない。しかし、女性はこうであり自分は彼女にこういうことをすればそれで十分という考えしか持たない。相手が不満を表しても自分の行動を変えないのは、相手の個性を無視することであり不当な扱いである。女性はこういうものだというような社会常識があることの弊害は、こういうことだと思う。
この3冊の本は、100%正しいわけでは無く、物事の女性差別という側面に目を向けすぎかもしれない。でも、女性を自分の欲望を満足させるものとして扱う、女性の性質を決めつける、男性社会に便利な結婚制度があるということは実際の出来事だと思う。これらは女性差別と言えるものだし、苦しむ人もいる。女性差別がある社会の中で男性の方が苦しんでいるとか、女性も女性である特権を利用しているという意見もあるだろうが、女性差別があるのがおかしいという主張の反論となるものでは無い。
フェミニズムについて知って、結婚や出産、性的搾取、女らしさの虚しい側面を知れて良かった思う。女として生きることの悩みを社会的なものなんだと思えることで悩みが軽くなる気がするし、こうあるべきという生き方でない生き方も良いと思える気がする。
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