見出し画像

美しい人に共通するもの

ダイエットとネットで検索すれば、いくらでも痩せる方法が出てくる。しかし、ただ痩せれば、美しくなれるのだろうか…それとも美しくなるには、最近よく耳にする「自己肯定感」とか「自尊心の高さ」というものが必要なのだろうか。自分が美しいと思う人たちに共通するものについて考えてみた。

「ダイエットはしていません」山口路子.『オードリー・ヘップバーンの言葉』.大和書房,2016,32p

オードリーといえば、すらっとした細い身体。
映画「麗しのサブリナ」で魅せたサブリナパンツを履いたあの姿は、何度みてもはっと息を飲む美しさだ。彼女は、ダイエットはしていないと言っているが、元ダンサーであったこともあり、食事にはとても気を遣っていたようだ。今回は、ダイエットがテーマだ。

ダイエットとは、運動をしたり食事をコントロールしたりして適正な体重にすることを示す。よって、痩せ過ぎた人が体重を増やすこともダイエットというのだが、日本では、主に痩せることと解釈されることが多い。ここでは、美しくなるためという目的で痩せようとするダイエットについて考えてみたいと思う。


私は、最近こんなことを考える。

“もしオードリーヘップバーンがプラスサイズで背が低かったら、美しいと言われなかったのだろうか…”

私は、どうしてもそうだとは思えない。
もし、オードリーがぽっちゃり体型だったとしても、彼女は美しい人だっただろう。そして、その新しい美の価値を確立していたんじゃないか…なんて考えてしまう。

痩せていても、正直私には美しいとは思えない人や、プラスサイズでうっとりしてしまう美しさを持っている人もいる。すると、人の美しさは、ただ太っている、痩せているということだけによらないのではないだろうか。では私が美しい思う人たちは一体何を持っているというのか。

わたしは、自己受容が関係しているのではないかと考えた。

自己受容とは、「ありのままの自己を受け入れること」とされている(実はいまだにその定義は単一ではないのだが…)。この「受け入れること」というのは必ずしも肯定的であるわけではない。それは、ただ自分の現実の姿を正確に観察し、自分の特徴をしっかり自覚していることを示す。自分を他者と比較し、社会的に望ましいだろうかという価値判断で自分を見ず、とても主観的に自分を観察・判断するのだ。

この自己受容の説明をみると、自己受容的な姿勢がある人とは、とても自分に自信がある人なのかな…という印象を持つが、決してそんなこともない。上田(1996)によると、自己受容は、自己評価の高さや自尊心の高い状態と同じとは言えないという。私たちは日々自分のネガティブな側面と向かい合っているが、その自分となんとか折り合いをつけていかなければいけない。この時、もともと自己評価が高ければ、折り合いなどつける必要はないのだ。むしろ自己評価が低い人こそ自己受容的な構えが存在し、自尊心の低い人にこそ、受け入れ難い自分を受け入れる「上手なあきらめ」という自己受容的な構えの意義があるのだという。


私は、この自己受容的な構えがある人たちを美しいと思うのではないかと考えた。「私はこれでいいの!誰にも何も言わせない!」といった防衛的な態度とは違う。肯定するわけでも否定するわけでもない。彼らは「これが私なんだよね」という感覚を持ち、社会的に望ましいと言われている価値に惑わされないのだ。

例えば、オードリーは、自分の現実の姿を正確に観察し、自分の特徴をしっかり自覚していた。彼女は、当時、社会的に望ましいとされていた金髪、豊かなバスト、男性より低い身長という価値判断を超えて、自分をよく観察し、自分をよく知っていた。そして、「自分は美人ではない」と言い、自信がなかった。一方で、そんな自分に折り合いをつけ、受け入れ、活かした。そうして多くの人はそれを美しいと認めた。まさに、彼女には自己受容的な構えがあったといえる。

自己実現のために、現実の自分を、社会的に望ましくないからと否定して、変わろうとダイエットするだけでは美しさは手に入らないのかもしれない。「社会的に望ましいという価値判断」を超えて自分を観察、評価し、受け入れた上で、自己実現に向かわなければ、美しくなるためという目的は達成できないのではないだろうか。無理に、自分に自信を持たなければ!自分を肯定しなければ!と気負わなくてもいいのだ。「これが自分だ」と受け入れる自己受容的な構えを目指し、マズローのいう自己実現欲求を満たすため私は、今日もダイエットに励む。

引用文献
上田 琢哉(1996).自己受容概念の再検討-自己評価の低い人の “上手なあきらめ”として-心理学研究 67 327-332


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?