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交尾できるオスを探しています。:創作大賞2023


1.ワナビ


最近、「ワナビ」という言葉を知った。

「wanna be(なりたい)」の俗語らしく、
「なりたがっているが、未熟な者」という意味で、侮蔑的な言葉らしい。


となると、私は「人間ワナビ」なのでは?

自分の使用済みティッシュ4年分を圧縮して喜んでるし、無職だし、ゲイだし、高2からずっと精神科通いだし。
ずーっと「普通の人」になりたかったけど、どうしてもなれなかったのだ。

なんとか国公立大を出たものの、労働能力は「週2日 1日5時間」であり、新卒にして小さなプレハブ小屋で時給800円で芋を量った

かと言って恋愛はどうかと言うと、女性相手に勃起できない。
なにわ男子のみっちーを見てはホットな股を慰める日々。ちなみに初恋はコナンくんと本郷奏多であり、小5の夏休みにコナンくんのおしがま(「おしっこを我慢」の略)シーンで一皮剥けた(物理)。

趣味は輪ゴムをタコ糸で結ぶこと。その総重量は1.5kgを超えたが、だからなんだと言う話である。

テレビは見ない。活字はエッセイ以外読めない。漫画も一巻完結でないと読めない。アニメも同じ理由で不可。映画もドラマも90(60)分もやるのかと思うと付き合ってられず見れない。とにかくグダグダやってるのがムカつくのである。

友達はいない。唯一仲がいいのがカワグチさん。5年前の職場の先輩で、未だにご飯に誘ってくれる。そして私は毎回体調不良で断る。彼曰く、「もうそういう人だと分かってるんで」とのこと。本来なら落ち込むべきなんだろうが、ヒトは本当に嫌いな人には声をかけない。それでも誘ってくれるのはやっぱりカワグチさんもゲイだからなんだと思う(また怒られるっつーの)。

みんなで集まって何かをやるのがとにかく嫌い。
バンド、飲み会、チームスポーツ、サークル、会議、ダンス、劇、合唱。
全部嫌い。特にダンスには憎しみの念すら感じる。馬鹿馬鹿しい。恥ずかしい。振り付けが一つしか覚えられない。みんなとやりたくない。

とまあ色々書いたが、要は「扱いが面倒臭い個体」なのである。自分でも自分の人生を生きるのが面倒臭い。

昨今の野球大旋風を見て、
「オオタニサンみたいになれたらなあ…」とも思うが、まず働けという話である。

痺れるぜ…

2.ルッキズム


「現金ですが‼️美男とならば何でもやれる‼️💪🤛🌛」

要するに私はどうしようもない面食いという話である。
女は猛獣使いみたいな懐の広い人がタイプなのだが、男を選ぶときは顔が全てだ。チンコもいらない。腹筋もいらない。明日戦争が起きて本郷奏多の首から下が全部吹き飛び頭部だけ培養されたとしても、それでいい。むしろ、それがいい。

甘えたり、甘えられたり。愛したり、愛されたり。助けたり、助けられたり。怒ったり、怒られたり。泣いたり、泣かせたり。

その全てがどうでもいいのである。「バカか?」と思う。
そんな心のふれあいなんかよりも美男の顔一つ眺めているだけでその100倍、生を実感できる。
だって、面倒臭くねえか?
下らんことに腹立てて、ぶつかって、そこに何が残る? 割れたIKEAのアホな皿が関の山だろ。
愛なんて多かれ少なかれ衝突を含むのだから、衝突するぐらいなら愛なんていらない。とすら思う。

その点、顔は嘘をつかない。裏切らない。表情はもっとそうだ。
なまじか人間が高度なコミュニケーションを何千何万年とかけて確立してしまったからこそ、「コミュ障」なんて言葉が生まれるのだ。
高度文明が生み出した悲しい副産物が、篠田麻里子の「寂しかったんだもん不倫」であり、小澤廉の外道堕胎パンチなのである。

もし地球上に存在する言葉が「ありがとう」と「さようなら」だけだったら、そのような悲惨な事件は起きなかったはずだ。もっと平和的に物事は解決する。いや、解決なんてしなくてもいいのだ。

物事の大半は時間がなんとかしてくれる。どんなに嫌いな人でも、どんなに好きな人でも、10年も経てばその熱量は必ず小さくなる。どんな人でも、だ。中には100年立っても熱が激っている情念の人もいるが、そんな赤犬みたいな人間は80億人もいる地球人から見たらいないも同然である。

顔だ。顔が全てを解決するのだ。
痴話喧嘩はもちろん、平手打ちも暴言も借金も糞尿も全てご褒美。
全部プレイに思えてくるのである。
だって、世の中のダメ男を見てごらんよ。顔だけだよ。なのに彼女はいるんだよ。どうしてそういう女が平手打ち暴言借金糞尿男と別れられないのかって? 顔ですよ。顔が好きだからですよ。
「彼が好き=彼の顔が好き」なんです。
だって、三又又三に平手打ちされたらバールで殴り返せるけど、山田涼介に殴られたら殴り返せます? 無理でしょ。むしろ共依存関係まで結んでしまうでしょ。認めなさい。人間そんなものです。

元カレ

3.意志

「やれと言われたら嫌になるが、やらなくてもいいと言われたらやりたくなる」
それが私という人間なのだが、多かれ少なかれ人はそういうところがあるんじゃないかと思っている。

親に「早くセックスしなさい!」って言われてたら、しなかったでしょ? え? またセックスの話かよって? 分かりました。

社会人になってからの勉強はいいものである。
私は水泳が大の苦手で、今も水中で目が開けられない。親が無理矢理入れたスイミングスクールでも小6なのに小2と同じクラス。体育の水泳でも叱られまくり、トイレに行きたいと言い出せずプールサイドでのコーチング中にビート板を盾に直立放尿したこともある。

え? また下品な話かよって? もうちょっと聞いてろよ。人間そういうとこだぞ。

まあそんなわけで水泳はプールサイドに立っただけで震えるほど苦手だったのだが、社会人になって4年目、なんと自ら市民プールに通い出した。
無論泳ぐためではない。歩くためである。
要は、水に顔をつけるから目が痛くなり息が苦しくなり放尿もしたくなるわけで、首から下だけ浸かり歩けば水など怖くも何ともない。ブクブクハアハア言いながら泳ぐプロ市民を横目に、腹だけ十月十日なボディを水面下に隠した私は余裕の顔でムーンウォーキング。

楽しい! プールなのに楽しい!

カラオケでセックスしてもいいように、別にプールで歩いてもいいのである。

学生のうちは「こうしなさい」と言われまくって、1から10まで嫌になってしまう。
だが学校から所属が抜ければ、「1から10のうち3だけはまたやってみたいかも」と思ったりするのである。その気持ちが大事なのであって、やらされる受験勉強より、自分でやりたいと思った露出プレイの方がよっぽど身につくのである。

「あ、この芝生から出たらやっちゃいけないんだ」
「あ、今日人いるけど公衆便所なら行けるぞ」
「あ、2月でも下旬ならいけるな」


など、どんなにそれが人としての道を外れていたとしても、気持ちが乗っているものの方がやっていて学ぶことが多いのだ。

「やりたいことがない」という人がいるが、厳密にはそんな人間は存在しない。
それはただ熱量が低すぎるか高すぎるかなだけで、自らの意志でやっていることが人間一つは必ずある。

私からすれば全ての子持ち人間はセックスが趣味のようにしか見えない。だって好きな相手と好きでセックスしたから子供が生まれたんだもん。好きでもない相手とした好きでもないセックスの結果子供が生まれたのだとしたら、そいつらは夫婦共々A級戦犯である。

「『好き』の気持ちを大事にしてほしい」とさっきニュースで宮野真守が言っていたが、まさにその通りだと思う。でも宮野真守とは絶対にセックスしたくない。それもまた「意志」のカタチである。

行きたいと思ったら地獄にも行きます

4.私の5項目

先程、どうにも我慢ならん差別的なツイートがあったのでつい口を挟んでしまった。当然やたら煽られ、私が洗濯物を干している間にブロックされてしまった。本当はもうこのエッセイを書き終えているはずだったのに時間がもったいない…

どうにも理解できないことは、いくら議論を交わしたところで理解できない。それならまだいいほうで、もはや議論ではなく口論になってツリーが荒れるのがオチだ。今も変な虫が湧いてきてガヤガヤ言いたい放題言っては消えていっている。

結局、議論なんて匿名でできるはずがないのだ。社会的責任はそこに発生しないのだから。
それに、お互い意地の張り合いになってきて、「おっしゃっていることはよくわかります。ですが…」のワンクッションすら挟めなくなる。
これを不毛と言わずに何と言うか。

問題解決に向かうためには、双方の共通認識が不可欠だ。意見が合うところまで戻って話を再スタートさせ、それで意見が分かれればそこで終われば良い。そうなれば後は簡単だ。
「Aについて双方の見解は異なったが、Bについては共通の認識を持つことで一致した。」
と締めくくればいいのだから。
なんか新聞の外交欄みたいなフレーズだが…

そもそも、Twitterなんかで大事な話をすべきではない。いや、大事な話をするのが悪いことではなく、本来大事である話を大事な話と認識せずに軽く扱い喧嘩のタネにしてしまうことがよくないのである。

私には、24の時から「5セイ」と呼んでいる、「他人と話してはいけない5項目」がある。

1つは「セイジ(政治)」
2つ目は「セイナルモノ(聖なるもの)」
3つ目は「セイベツ(性別)」
4つ目は「セイイクレキ(生育歴)」
5つ目は「セイギ(正義)」
である。

大抵世の中の下らない喧嘩はこのどれかに分類されるのだ。

本当はこういう話はきちんとした場できちんと話すべきなのだが、2者間レベルでは不可能に近いため結局議論などできやしない。
きちんとした場できちんとした話をするのは日本の国会議員であるため、彼らに喧嘩のタネは預けておればいいのだ。
「その前提は間違っている」って?
それは「セイジ」に関係するのであなたと議論する気はない。

いけません

5.旅

今は鞭打ちになってしまったのでもう行けていないが、昔はよく一人旅に出かけた。
ベトナム、東京、神奈川、宮城、福岡、北海道…
私はそんなタフな人間ではない。そもそも、楽しくて一人旅をしているわけではない。

社会勉強のつもりで行っているのだ。
若いうちは体力も行動力もあるからできるだけ色んなものを見て、自分がしたいと思ったことは何でもやってみた方がいい。
視野が狭いと無意識のうちに人を傷つけてしまう気がするからだ。
生きている限り誰も傷つけずに生を終えるのは不可能だが、傷をつけた経歴は少ない方がいいし、相手の傷も浅い方がいい。

もっと恐ろしいのは「知った気になる」ということだ。山のように情報が溢れ、いつでもどこでも簡単にアクセスできるようになってしまった現代では、情報元を調べずに鵜呑みにしてしまうことが頻発しているように思える。
昔は大手新聞だけだったのが、今や掲示板やSNS、ネットメディアなんてのも存在する。となってくると本来は、何が本当のことなのか分からなくなってくるはずなのである。

そのため、私は基本的に実際に目で見て感じたことしか信じていない。あなたにとっての真実と私にとっての真実は違い、私にとっては私が感じたことが全てだからだ。独りよがりに思えるかもしれないが、自分の体験をベースにしないと自我がおかしくなる。


上記のように、視野を広げるというのが旅の目的の一つ。もう一つには、ソーシャルスキルトレーニング的なものがある。

私は子供を作ることができない。夫婦関係を持つことも難しい。男性と家族を築くことは現行法の限りではできない。
私の戸籍上の親は母だけだ。兄弟もいない。

となってくると、まず自分の生活を成り立たせるのが最重要となるのだ。
精神的なハンディに加え、物事の捉え方や脳の分泌バランスが人と違うため、一人旅をするのは一苦労だ。だからこそ生活スキルが身につく。

予算は、金を入れた封筒にレシートを全て入れ、帰った後に一気に精算する。1円でも合わないものならパニックになる。
ホテルの予約もトリッキーだ。ホテルの安いプランというのは基本2人以上からなので、最初に一人旅を始めた頃はシングルでかつ安いところを探すのに苦戦した。
バスや電車も中々難しい。秋保なんかはとても良いところだが当時の18時以降はバスすら出ていなかったため乗り遅れは死活問題だった。

「誰かと行けば安心では?」との声も聞こえるが、それじゃあ勉強にならない。このヒリヒリ感も含めてのガチンコの生涯学習なのである。

というように旅に出て楽しかった記憶が一切ない。だが、エッチなお土産屋のおばちゃんの与太話が面白かったとか、神経質な私にも駅員さんが優しくルートを教えてくれたとか、そういうのは決して忘れない。

クレープ(概念)

6.食べ物

厳密には私に「楽しい趣味」と呼べるものはない。絵を描くのも文章を書くのも趣味だが、突き詰めると苦行でしかないため全然楽しくない。前述の通り、旅も私にとっては楽しいものではないし、誰かと話すのも不安を内に招き入れるだけだ。
となると、何が楽しくて生きているのか。バシッと答えられるものはないが、強いて言うなら食べることが小さい頃からずっと好きだったのである。

絵にしろ文章にしろ変に感覚がマッチすると「生み出す苦しみ」を味合わなければならなくなるが、食の場合、私は生み出すことに関して全く感覚がマッチしない。センスのかけらもないのだ。材料や調理法には一切関心がないし、どこの国の発祥なのかにも興味がない。ただ消費することだけに興味があるから、ずっと好きでいられるのだと思う。

最近の関心ごとは、「どうやったら食べ物を美味しく感じられるか」である。

人は以前美味しいと感じたものを食べても、「前ほど美味しく感じられない」ということがよくある。
この原因にはいくつかあり、一つは、単に時間と共に味覚が変わったということ。もう一つは心身の状態が良くないということ。後は、水分が足りていない、というのも実感としてある。喉が渇いていると「飲欲」の方が先行してしまい、「食欲」の方の感性が鈍ってしまうのである。
後は急いでいる時に食べても満腹の時に食べても味がしないし、そもそも作り手が変わって味自体が変わってしまったということもある。

突き詰めると、私は「美味しいもの」が好きなのではなく、「美味しいと感じられること」が好きなのだと思う。美味しいと感じるためには、まず自分に余裕がないといけない。そして心身が健康であり、食欲がないといけない。すなわち、健康でなければ食べ物を美味しく感じることはできないのだ。

「何当たり前のことを」と思われるかもしれないが年中心身が不安定な私にとって、そのコンディションを整えるのは中々難しいことなのである。
結局は自分が健康でいられること。それが何よりの幸せなのかもしれない、なんて思ったりもする。

これだけはいつ食べても美味しく感じる

7.欲

私が今まで頂いた恩師の言葉の中に、以下のものがある。

「欲を出すと作品が濁る」

まさにその通りなのである。
分かっているならやめろという話なのだが、若い頃は往々にして社会からの評価や作品をもっと大きいものにしたい、と考えがちだ。そしてそれは何も悪いことではない。

しかし、評価を得ようとするとモチベーションが希薄になるし、大きいものにしようとすると複雑になりぼやけて伝わらなくなってしまうのである。これが「濁る」ということなのだ。
売れるものがいいとは思わない。偉い人に認められたものがいいとも思わない。

だが、生まれてから一度も日の目を見たことがない者からしたら、「箔がつく」ということはどれだけありがたいことか。自分に自信がつくし、何より目の色が変わる。

と思う一方で、いわゆる新人賞の類は「ゴールではなくスタートである」と釘を刺されることが多い。確かにその通りである。あくまで「新人」として認められただけであり、「作り手」として認められたわけではない。
もっと言えば就職できただけで、その後のルートは全く敷かれていないのである。そこからは当人の才と力量に全て起因するわけで、そこで鳴かず飛ばずであればただの人だ。

となってくると、創作行為の本質は何か。
結局は、「続けること」に他ならないのではないかと思う。作り手として売れようが売れまいが、誰に見られようが見られまいが、死ぬまでつくり続けること。それが一番本物の作り手の生き様のような気がする。

それもあり、私は本来ネットに作品をアップするのを良いことだと思っていない。むしろ刃を鈍くするものだとすら思っている。

アップする人のパターンとしてありがちなのは、やりがいとして、「作っている事実を発信すること」が「納得いくものを作ること」より上回ってしまうというものである。
この手の人は作る方というよりは、作り手を世に広める方に向いている。無論、どっちがいいという話ではない。

私は「作る方」として生きたいため、自分の快楽のためだけに作品を作り続けたい。そのためにはネットに出して評価の泡銭を受け取ることは避けたい。

…のだが、今の時代においてはネットに出さないと売れないのも現実である。いや、ネット上ですらすでに飽和状態だ。ありとあらゆる娯楽作品が市場に溢れ出て創作物の価値が下がる、言うなら「創作デフレーション」の時代に突入している。

人々は消費することだけに明け暮れ、ものごとを一から作り出す行為への畏怖の念が擦れてきている気もする。では作ることなんてやめてしまえばいいのかというとそうではない。
ゴールを外に作るから挫折するのである。自分の中にゴールを常に持ち、かつ通過したゴールを叩き壊して新しいゴールを目指していれば、いつか光が射すような気がしているのである。

特に意味はない

8.チンポ

「ゲイの世界とはこんなにも渇き切った世界なのか…」

と痛感したのは、大学を出た23歳の時だった。

私は自身のセクシュアリティを受け入れるのに時間がかかった方であった。受容できるようになるまではずっと女性主演AVで自慰を試みたり、男性に目が行ったら「おっぱい」という単語を思い浮かべたり、自分の性癖の詰まったメモリーカードにカッターで傷を何度も入れた後バキバキに折ったりした。

しかしそれらのどれもが効果がなく、とある人に「このままじゃ自分が可哀想だよ」と言われたことによってゲイである自分を愛せるようになった。

さて話は23歳に戻るが、それまで抱えてきた自らの欲求は徐々に開花していった。

ゲイアプリにパレード、ガレージホテルでのセックス、アダルトグッズ店探訪、同人誌収集、ゲイナイトクラブ、ゲイバー、エイズ検診、SMなど、山なし落ちなしのやおい道を歩み続けることとなる。

ゲイアプリには体の関係を求める連中ばかり。
判断基準は皆、顔。シンプルだ。
シンプルなだけに、持てる者と持たざる者の格差は年々深刻になるばかり。地方なら尚更だ。メンツがいつまで経っても変わりゃしない。
たまにイケメンが現れたと思ったら都市から帰省したワンナイトボーイ。かたやアプローチがあったと思ったら27歳も年上。誘い文句は「交尾できるオスを探しています」。人間にかける言葉ではないのである。

かと言ってゲイバーに行けば出会いがあるのかと言えばそうではなく、そこにもまた格差が存在する。
基本的に地方ゲイバーではすでに塊ができており、その中に文字通り裸一貫で入っていけるメンタルのものでないと馴染めない。雰囲気は正にパーティ・ピープル。私のような森田童子ファンが行ったところで空気を湿らせてしまうのが世の常。たまたま横に座った兄貴がベロベロだったので話し相手はできたが出会いの場ではないなと思い、行ったのはそれが最初で最後。
ナイトクラブにも行ったがぼっち参戦が惨めすぎてそれも最初で最後。笑えない内容なので割愛。

「どっかにいい男いないかしら?」
とは思うものの、中々マッチングが上手くいかないのである。理由はみなさんご存知。ゲイの大半は顔で男を瞬時に選別しているから。興味のないやつには相槌も打たないが、誰もの目を引くナイスガイには尻尾を振ってついていく。
じゃあお前はって? そんなもん顔しか見てないに決まってるじゃないの。

アンガールズの同人誌 世界は広い

9.コミュニケーション

私はいわゆる発達障害があるのだが、私の困りごとを知り合いに話すと強めに共感されることが多い。

「ならば、会社での私の問題を皆の問題として解決すれば…」

なんて思うが、社会人はそんなに暇じゃないのである。悲しいかな、障害枠で入った人間は所詮障害枠。毎日黙々と隅で雑務をこなし、最低賃金と手当で文句を言わずひっそりと生きることを期待されている存在なのである。

では、どんな困り事があるかと言えばまず挙げられるのは「曖昧な表現」である。

例えば、今日が7月4日だとする。私が朝、PCの受信箱を見ると先輩からの「明日の16時からレクチャーがあるので時間空けといてください!」的なメールを観測。
そのため翌日5日のリスケをするのだが、先輩が声をかけてきたのは本日4日の16時。私の頭の中がハテナで一杯になる中、先輩はこう言う。

「『明日』って言ったじゃないですか!」

まさかそんなことはないだろうと思いメール受信時間を見ると、受信日は7月3日の18時半。障害者雇用の場合事務は16時か17時上がりが多いため、こういうズレが起きてしまったのだった。
無論、先輩は悪くない。むしろ18時半まで働いているなんて自分が情けなくなる。

まあそれはそうなんだが、もしメールに「明日、7月4日(水)の16時からレクチャーが〜」とあったら、ものすごいありがたかった。
というように、一般の社員の方でも経験する「あるある」なのだが、私の場合はもう少し範囲が広い。

例えば「今日までに」と言われると、

「今日のあなたの退勤時までに絶対終わらせてね」

なのか

「今日のあなたの退勤時までに終わらせてね。できなかったら必ず報告してね」

なのか

「今日ちょっとくらい残業してでも必ず終わらせてね」

なのか

「今日の0時までに必ず終わらせてね」

なのか

「今日の私の退勤時までに終わらせてね」

なのか

「今日の会議の前に終わらせてね」

なのか…

どれなのか分からないのである。無論、ここら辺のニュアンス汲み取りを間違えると大変なことになる。
そのため、「今日の何時までに終わらせればいいですか?」と聞くが、「あー、できたらでいいよ」という、一瞬ありがたく感じてスルーしてしまうが、よくよく考えたら答えになってない答えを拝受。

少し間が空いて、「私の退勤時刻の17時でも構わないですか」と再度聞くと「またかよ」的な顔をして「あー、いいよ。でも15時までに終わらせてくれたら嬉しいかな」との返答。

「じゃあ最初から『15時までに』って言えよ!!!」

と思うものの当然そんなことは言えず…。
こちらも悪気はないんです。でも周りに迷惑をかけるわけにもいかず…。新入社員の子達とかどうしてるんだろ…。

人生で唯一楽しかった忘年会

10.献花

私が一番最初に影響を受けたエッセイ作家は、さくらももこである。
小6の時に町の図書館で「てきや」を読んで声を噛み殺して大爆笑し、文体を真似して日記を書いたら先生が褒めてくれて皆の前で代読してくれた。
すると、教室中が笑いの嵐。中にはさくらももこのパクリだと指摘したちょっと嫌なやつもいたが、あの時の熱波を私は未だに忘れることができない。

時は流れ、18の時に私は清水で一人暮らしを始めることになった。憧れの地に…と言いたいところだったが、清水とは言ってもかなり端の方で「ザ・港町」という感じは1ミリもなかった。目の前は山だった。

再び時は流れ、あれは忘れもしない2018年の8月14日(今調べたら15日でした)のお昼時。私は市内のラーメン屋でお昼を食べていた。
スマホでポチポチTwitterを見ていたら、さくらももこの訃報が流れてきた。死因は乳ガン。53歳。

嘘だろ?、と思いながらスマホを触るとネットはさくらももこの訃報一色。メルカリにさくらももこの遺作がバンバン出されたのを見て、「あ、本当に亡くなっちゃったんだな」と呆然とした。

8月25日くらいだったかな…、そのくらいに清水のちびまる子ちゃんランドに献花コーナーが設けられた。本当は東京まで献花に行きたかったけど時間もなく、しかもちゃんとした花束を買う金もなく、結局近所の花屋さんで桃色のガーベラを2本ラッピングしてもらい、清水に供えに行った。

私は初めてさくらももこのエッセイを読んだ時、初めて本気で笑った。もういい大人になってしまった今、誰かを本気で笑わせられる文章が書けたらな、といつも思っている。

R.I.P




#創作大賞2023 #エッセイ部門

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