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安心のコップ

最近とても不安定で、イライラすることも増えたけど、同時に、安心する瞬間も増えた。

「昔安心した時」といえば、先生や教授から褒められた時。それは、「認められた安心感」だった。
自分には価値がある。自分にはこの能力がある。だから生きていていいんだ。
そんな風に思っていた。

でも、社会に出るにつれて褒められることは少なくなった。仮に褒めてくれていたとしても、私がいないところで言ってくれているから私には伝わらない。
むしろ気になるのは怒られること、注意されること。相手は何気なく言った言葉なのに、私は根拠もなく被虐的に解釈してしまいすぐに動悸が出てしまう。

10入るコップに常に不安感が8いるため、例え2だけでも急に注がれるとこぼれておかしくなってしまう。
「8」は周りには見えず、周りに見えるのは「2」の方だけ。

「たった2でこうなるとかおかしい」

と言われても、私のコップの容量が10であることも、常に8がいることも証明できないため毎回自分を責めて終わってしまう。

仕事があった時は、もうちょっとコップが大きかった気がする。
直接褒められはしないが、仕事をしているというだけで「社会に認められている」と感じられたからだ。
そして仕事に就けていない今、感覚がまたちょっと変わってきた。

なんか、本当にちょっとしたことで安心するようになったのである。

例えば、病院にて。診察が終わり部屋を出る時、私は「ありがとうございました」と言う。それをちゃんと聞いてくれている先生は「はい、お大事に」と言ってくれる。

これだけでめちゃくちゃ安心するのである。怒らせていないな、と実感できる。

誠実な言葉に誠実な言葉が返ってくる。
これが、社会との接点が希薄な現状では、とてもありがたく感じるのだ。

あとは、病院で看護師さんに「こんにちはー」と声をかけられ、小さい声ながらこちらも「こんにちは」と言いながら会釈をする。
これがとても気分がいいのだ。
自分が「ここにいていい」と感じられる。
「今の状態でいいんだ」と安心できる。

運転中もそうだ。先に車や歩行者、自転車を行かせる。その時に会釈をしてくれたり、手をあげてくれたりする。これもまた心が安定する。

今まではこんなことはなかった。
いや、あったけど、それは本当にもう限界の時だった。


ん?
あ、私今限界だったんだ…




仕事も1年5ヶ月決まらないし、一方的にぶつけられた事故の後遺症で、1年弱経った今でも鞭打ちが辛い。
「何かあった時のために」
と今までこつこつ貯めてきた貯金を、日々の生活費を賄うために現在切り崩している。

私は疲れやすいため、基本誰かと遊びに出かけることはない。そのため電話が好きなのだが、みんな仕事や生活で忙しいため難しい。
週2で来てくれるヘルパーさんと軽く交わす世間話が、ちょっとした気晴らしだ。

こんなに約1年半も社会から干されていると、何気ない挨拶ややり取りがとても身に沁みる。
熱を出した時のりんごすりおろしがとても美味しく感じるように、今は微細な交流がとてもありがたく感じる。
「社会に認められている」と実感できる。

早く社会に戻って不安のコップを大きくしたいのは確かだ。だけれど、それより今はこのささやかな幸せを、安心のコップに一つ一つこぼさず集めていきたい気もする。

お花もなんだか好きになってきた今日この頃


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