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親切神

時々まだ、生きているということについて考える時間を設ける。



人間の思考の範囲はどの程度あるだろう。

私の希死念慮のスタートは、確か小学校高学年辺りだった。それから地元に居る間は暫くそうして生きていたし、上京して数年間も、飽きずにそうして生きていた。
想像を行動に移すたびに大人達は揃いも揃って困ったような、呆れたような顔をしていた事が印象的だった。何故そんな顔をするのか、何かいけなかったのか、叱られても怒鳴られても、いつかテレビで見たジェリーが反省するフリも真似してみたが、理解はさっぱり出来なかった。

伝えたい事が山ほどあったらもう少し上手に喋れたのかもしれないし、本気で理解したかったのならもう少しあなたに寄り添えたかもしれない。本当のことは自分にもわからないと解っていたから、全てを誰かの所為にしてきてしまった。
沢山の人を泣かせて悲しませて、あれもしかして、私って何しても迷惑かけるだけなんじゃないか?思ったことを伝えても、正解を貫く為に行動しても誰かが悲しむなら…何も出来なくなった。
死ぬ以外の解決方法が浮かばなかった。


絵を見て涙して音楽を聴いて癒されて、マンガや映画に熱中して、なんてことはかつて一度も覚えがない。他人だけではなく、その他人の表現方法に対しても私は実に鈍感だ(ギターにだけは熱中してしまった)。どうせ解らないと半ば諦めていたが、大人と言われる歳になって、漸くそれが悲しいことだと気が付いた。

昔抱いた希死念慮は、歳を経て様々な経験を重ねて以来あまり顔を出さなくなった。
ただ人はそう簡単に変わるものでもないだろう、息を潜めているだけでいずれまた必ず顔を出す。その時にはあの時とは別の形で迎え入れたい。あの時のまま、怖くてどこにも行けないまま泣いているわけにはいかないのだ。


自分の思考が満たされた時に他人の思考を100で受け取れたら、どれだけ幸せだろう。喜怒哀楽を分かち合えたら、自分の思考を疑う余地は無くなるだろう。戦争は無くなるだろうか、人を愛する事が怖くなくなるだろうか、もっと優しく生きられるだろうか。

こうして文章に起こして読み返してみるのも奇天烈でいいね。

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