見出し画像

パチンと

もし僕たちが、死ぬタイミングを選択できる生き物だったら、どのような毎日を送るようになるのでしょうね。
満足のいく生き方をして、さあもういいですよここらで終わりにしましょうか、といって指を鳴らしてパチンと体が弾けて全てが切れるような。

まあきっと、いつまでも指を鳴らさずに生き続けたいという人がほとんどのような気もするけれど、どのような生の痕跡を残す「思想」や「文化」「生命のメカニズム」となるのだろうか。

10代の初期というかそんな塩梅な時の僕たちは、悲しいほどに毎日が毎日でしかなかったから、10年後のことなんか想像できない程に時間が止まっていて、世界は手の届く範囲にしかないもんだから、政治とかいう他人の想いで動いている世の中なんか目にも頭にも入ってこなくて、大好きな女の子に振られてしまうことのほうが大変だったよね。そりゃもう、地球が割れるくらいのおおごと。

そして今になって思い返す永遠に続くかのように思えていた10代のあの時は、悲しいほどにあの時のままで、痕跡など残すこともなくただそこに漂っているような感覚だけで残存というか存在というか、まあそこにある。
それからさらに10年を幾度と重ねて、いやー時間が過ぎるのはあっという間だね、とか言いながら毎日が呑気に続くと未だに思っているもんだから困ったものだ。いやいやそいつはどこか確率論めいていて、運が悪ければ終わりが来るのだろうけど、やっぱり普通に暮らしていれば終わることなんてないよねと言う思いの方が強く、自堕落な性格が今日を明日を侵食していくのだ。
勘違いしちゃいけないのは生きていることができているということではなく、運よく生き残ることができているということ。今日も明日も、加算的に過ぎているものじゃぁなくって、与えられているものを減らしながら、順番に生を全うしているということですよね。

じゃあそこで死ぬタイミングを選択できると言うことは、ゴールを定めるということなので、そこまでにタスクを整理して修了することができれば、こと美しく終わることができるものなのだろうか。次から次へと課題やら興味やらが増えていくのだろうけど(そいつの量や質で人生の長さは変わっていくのだろうけど)、つまり整理できて終了できることこそが人生を終わらせるための行為に他ならないのではないのだろうか。

あの頃の僕は10年後が想像できなく毎日しか生きていれなかったけれど、今の視点が明日やその先に動き始めたころに次のステージへ移行しているのだろうなという実感があったのだと思う。
きっと僕だったらその時に指を鳴らして終わらせていたように思う。
毎日という今から、明日やその先の見えない未来に想いを仮託するようになったあの瞬間に。

人間はやはり死ぬタイミングを選択できないし、それを伸ばそうと努力してくれている人がたくさんいる。身近な人の時間がいつまでも永遠に続いてほしいと思うことは、僕たちの強い感情の働きから造られた「死を選択できない」生命のメカニズムに紐づいているのだと思える。

ところで、

年を取ると時間が経つのが早いよね

この現象については色々な説があるのだけれど、僕が一番納得できているものは、こんな感じで
20歳の1日は、1/20(にじゅうぶんのいち)だけど
40歳の1日は1/40(よんじゅうぶんのいち)
1/20と1/40だったら、1/40の方が短いから、早く感じる、というもの。
どう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?