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それゆけ多様性

僕は繊細だ。
望んでそうなった。

人生とは、
道端の石ころを拾っては選別することを繰り返す。
その過程で死んでいくものだ。

そんな生き方を、先人から教わって生きてきた。
誰も気が付かない小さなことも、
拾っては確かめて、
手に入れ、捨てて、心に留めて。
それを繰り返してきた。

けれどまさか、その繊細さに潰されるとは思っていなかった。


繰り返される会議での中、僕に求められることは「新しいアイデア」「新しい展開」などではなく、誰もが安心する知見に基づいた「技術」だけだ。
根拠のない理想を掲げられては、古臭い枠に嵌め込まれる「技術」だ。

Aさん「私の今までの経験上、これをすると時間がかかってしまうので、量を減らして計画を進めたいんです」
Bさん「私の前の現場であったことなのですけど、量を減らすということはその分、PRの効果が減少しますけどよろしいのでしょうか?それよりもコストを減らして利益を上げることが大切なのではないでしょうか」
Aさん「嗚呼ロミさん(←僕のこと)、量と時間を減らせるものを作ってください」
Bさん「嗚呼ロミさん(←僕のこと)、その上で経費を抑えて作ってください」

一見、理にかなった会議のように思えるけど、なんのクリエイティブもされていない。

□ 時間がかかることが、どのようにいけないことなのか根拠がない
□ PRの効果検証がされていなく、そこと利益が紐付いていることも検証しない

新しいことにチャレンジすることだけが正しいとは言わないけれど、これでいいのか??という空気が会議全体から漂ってくる。
ここでは10人近くの大人たちが話し合っているのに。

「繊細さん」とか「HSP」とか言われるかもしれないけれど、
僕の武器はそれだと思っている。
細かい空気に苛まれながら、どのように表現するか日々を模索している。

そのため、強い発言をするには「勢い」が必要なんだとも認識している。
社会人という人種は、優しさや弱さを見せると、とたんに寄り添うことをしなくなるのだ。
経験者は残念なことに、余裕がない。
個性という自身の輪郭を守り続けてきた人生の先輩達は、生きる術として「自衛力」に長けている。
イデオロギーを掲げて、これが「多様性」などと訴える。

これでいいのだろうか。

ほんとうの意味での【多様化された世界】に生まれた今の世代は、もっともっと広い【情報の海】で泳ぎ続けてきた。
僕たちなんて「井の中の蛙」よろしく、屁のカッパである。

下の世代から見上げられた僕たちが、聞く耳を持たない世界と認識されたとき、
僕たちは隔離されるか、見捨てられるのだろう。

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