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日帝が行った”医療革命”朝鮮を救え

「日帝が病院を減らして、むしろ伝染病を増やした」という韓国の主張は本当だろうか。当時の史料をまとめて解説いたします。




日本統治前の医療の実態

朝鮮時代の医療は漢方医、鍼灸治療、巫女(祈祷)、占いなどが中心であり、我々が普通に「医者」と呼ぶ現代医学を習得したものは皆無であった。そのため伝染病が流行してもその対策は全くせず(対策できず)収束するまで待つしかなかった。1895年におこったコレラの大流行では死者は6万人を超え、「死屍累々として路傍塚を以て埋むるの惨状」と記録されている[1]。近代医療が受けられる病院は1899年廣済院・京城医学校、1904年セブランス病院、1905年韓国赤十字病院が設立されたが規模は小さく設備も不完全であった[2][3]。


日本による朝鮮医療の近代化

1907年伊藤博文統監は佐藤進軍医総監に依頼し、韓国政府が約40万円を投じて大韓医院(1908年完成)を建設する[4]。佐藤は廣済院、京城医学校、大韓赤十字病院の三つを合併して大韓医院とし、治療部、教育部、衛生部の三部体制を整えた。治療部は内科、外科、眼科、産婦人科、耳鼻咽喉科、病床は約100床と大規模なもので、部長は伊藤博文の侍医であった小山善が就任した[5]。

また佐藤は財団法人同仁会の副会長も務めており(会長は大隈重信)韓国政府とのパイプ役も担った。同仁会は各地方の警務顧問医の推薦、各港や鉄道沿線の主要都市の病院長や鉄道医の世話などを行い、平壌同仁医院、大邱同仁医院、竜山鉄道病院も開院するなど朝鮮医療の近代化に大きく貢献した[6]。併合直前の朝鮮の医療はソウルの大韓医院と地方の同仁会によって支えらた。

日清戦争後、清国皇帝から贈られた双龍第二等第二宝星勲章を身に着けた佐藤進(明治29年撮影、「医学博士佐藤進先生自伝」所収)


1909年陸軍は日露戦争で使用され朝鮮の倉庫に眠っていた医薬品や機器等約5万円(今の貨幣価値換算で約1億9千万円)相当を統監府に移管した。統監府はこれを有効活用するため全国に慈恵医院(14か所)を設立し、地方の貧困者に無料で使用した[7][8]。1910年朝鮮総督府初代総督の寺内正毅は以下の話している。

おおかた人生において気がかりなのは病気(健康)以上のものはない。従来朝鮮の医療は未発達の域を脱せず、病気による苦しみを救うことも、天寿を全うすることも叶わなかった。先に京城(ソウル)に中央医院を開き、全州・清州・咸興に慈恵医院を設けて以来多くの市民が医療の恩恵受けることができた

三木栄 著『朝鮮医学史及疾病史』,三木栄,1963. p.461より筆者意訳

医療、衛生は日本統治政策の最重要課題であったことは言うまでもなく、これから日本国民となる朝鮮民衆の健康、生きがいまでも願っていた。

また朝鮮の風土病と言われた肺吸虫症(肺ヂストマ症)の撲滅のため朝鮮総督府医院に医療研究科を設置して、苦心の研究の末、感染経路が明らかになるなど朝鮮医療のみならず医学界においても大きな功績を残した[9]

【肺吸虫症の感染経路】
人の痰 → タニシ → 沢蟹 → 人体 → 人の痰

佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(後編)-.朝鮮学報.1952.第3輯 pp.157-158


日本による医師の育成

朝鮮半島における医師の育成は主にソウルの大韓医院、平壌の同仁医院附属医学校、大邱の同じく同仁医院附属医学校が行っていた。その中でも平壌の教育は非常に熱心であり多数の優秀者を輩出していた。平壌における育成は1905年4月中村富蔵が大同門通りで寺子屋式に育成したことから始まる。これを公立同仁医院附属医学校が引き継ぎ、陸軍軍医や薬剤官の協力も得て、おおよそ3年のカリキュラムで医学の教育をした。生徒らは通訳を介した授業を熱心に学んでいたが、教員達は診療との掛け持ちであったため、1911年多忙により同仁医院附属医学校は閉鎖され総督府医院附属医学講習所に継承された[10]。

総督府医院附属医学講習所では解剖学、組織学、病理学などの基礎医学は若い勤務医が、臨床医学は内科部長医官医学博士の森安連吉が無報酬で熱心に講義を担当した。卒業した医師は各地で開業や、慈恵医院の要請で推薦し勤務することもあった[11]。1916年藤田嗣章、佐藤剛蔵の尽力により総督府医院附属医学講習所は京城医学専門学校に昇格。それと同時に内地人の入学も可能となった[12]。

1925年志賀潔(赤痢菌の発見者)、佐藤剛蔵らが中心となり京城帝国大学医学部の創立の準備に着手し、翌26年に本格的に開始された[13]。ソウルの医師の育成は京城帝国大学と京城医学専門学校が終戦まで担うことになる。


佐藤剛蔵の熱意とそれに応えた朝鮮人

朝鮮総督府は大韓医院の育成があまりぱっとしなかったから正直「朝鮮人には医師はまだちょっと早いだろう」と考えていたことは事実だ。しかし当時同仁会平壌医院医学校長をしていた佐藤剛蔵は「朝鮮の青年はなかなか良く勉強もするし頭脳もいいものがあるから、必ずものになると信じている。暫く時を貸してくれ」と総督府を説得した[14]。平壌の成績が良かったのは恐らく佐藤剛蔵の指導力が優れており、その熱意に朝鮮の学生もしっかり応えた為だろう。

こんなエピソードもある。佐藤剛蔵が授業をしていると早朝に教室の外で誰かが叫んでいた。見ると白い朝鮮服を身にまとい、黒い朝鮮の帽子を被った大柄な中年の男がそこにいた。男は「こちらは熱心に医学を教えてくれるそうだが、自分もこちらで学びたいから何とか入学させてくれないか」と直談判した。男は咸興から平壌まで約300kmを徒歩で来たという(東京、名古屋間とほぼ同じ。3日以上はかかる)。佐藤はこの男をすぐに入学させた。卒業後は地元で開業し大きな信用を得たという[15]。

佐藤剛蔵は総督府医院附属医学講習所の医育課長を経て、京城帝国大学教授、京城医学専門学校の校長を終戦まで務めた。朝鮮半島に米軍政が敷かれると京城医学専門学校は京城帝国大学医学部に編入されることになった。これに学生、教員、同窓生、果ては左翼勢力も米軍政に反対して大混乱になった。学生等は協力して佐藤剛蔵校長を守り無事に釜山の港まで送った[16]。


病院数と医師数の推移

病院数(図表1参照)は増減のブレが大きいものの1919年までは上昇し、1920年に激減してその後は微増していることが分かると思います。ポイントは1919年にいったい何があったのかです。

一つ目の可能性としてまず考えられるのが「3.1独立運動」です。『朝鮮騒擾経過概要』によるとこの暴動により、618か所の公共の施設が襲撃被害を受けています。記録には日本人家屋にも相当な被害がでたとあるので病院や商店などが多数襲撃されたことは容易に想像できます。

二つ目は『私立病院取締規則』です。この規則により病室の面積、患者の定員数、階段の大きさと数、非常口の数と経路、防火設備、感染症対策(炊事場、風呂、トイレ、消毒施設、霊安室の距離や位置)、それらの工事予定を示すものの許可が義務化されました。総督府はここまで厳格にしなければ民間療法に偏重する社会を変えて、蔓延する感染症を撲滅することはできないと考えたでしょう。しかし医師一人に対する人口は10,622人となっていたことから、医師の資格はないがその経歴、技術を審査して優良としたものに対して地域と期間を絞って医業を許可する限地医業者という制度も存在した[17]。医療の整備は急務だが、医療水準の底上げには大変な労力と時間を要するという総督府の苦労が垣間見える。

図表1.病院数
朝鮮総督府統計年報より作成

朝鮮人医師数は1910年の1,342人から1912年まで激減し、その後は順調に増え続けている。激減した理由は、医師としてレベルに達していなかった者を取締ったためである。韓国には併合前(1900年)に独自の医師法があったが、運用など遵守された形跡が全くなく、医業を営んでいた者を一時的に医師と見做していた[18]。1927年(昭和2)に762人に達し、内地人医師の711人を初めて上回った以降は常に朝鮮人医師が多かった。

図表2.医師数
朝鮮総督府統計年報より作成


病院数増加が緩やかだった理由

冒頭にも書いたが、朝鮮で医学と言えば漢方が当たり前の世界だった。現在の日本では西洋医学が当たり前だが、例えばそこに怪しげな医療が入ってきたら社会はすんなり受け入れるだろうか。同じようなことも当時の朝鮮では起こっていた。また漢方医の縄張りは西洋医学の発展にとって大きな支障になった[19]。そこで朝鮮総督府医院長(前大韓医院)の志賀潔は漢方医の集まりに度々出席し最新の医学を彼らに伝えた[20]。他には医学を学ぶための基礎学力が不十分であったり、医師の社会的な地位も医学生数が低調だったことに影響している。数字だけで「日帝は医療を疎かにした」と捏造するのは正直ウンザリする。


致命率の推移

図表3は伝染病(コレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、天然痘、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア)の罹患者数に対する死亡者数の割合(致命率)をグラフにしたものである。これも1920年までは図表1の病院数と同じように推移し、それ以降は病院数の微増とともに致命率も微減していっているのが分かる。1919年に致命率が激増しているのはコレラのパンデミック(世界的大流行)によるものですからこれらの数字だけで衛生や医療水準を決めつけることは出来ない。しかし伝染病とは人から人へ感染する病気なので、総人口(図表4参照)の増加ペースを考慮すれば決してハイペースとは言えないが着実に医療水準は向上していたと言える。

図表3. 伝染病致命率
朝鮮総督府統計年報より作成
図表4. 総人口
朝鮮総督府 編『朝鮮総督府統計年報』昭和17年,朝鮮総督府,1944.3. p.16 より作成


世界の評価

以上日本が考える医療・衛生と医師育成の重要性、その対策をご紹介したが世界は日本による政策をどのように評価したのか。1925年国際連盟の衛生技術官会議が日本で5週間、朝鮮半島で2週間等の日程で開催された[21]。技術官らは日本では淀橋浄水場、三河島溽物処分場、東京衛生試験所、芝細菌検査所などを視察している。各国の技術官は日本が短期間に朝鮮の衛生状態(水道の整備など)を向上させたことに驚いた。中でも病院、医療に関しては西洋各国を凌いでいると評価された[22]。


まとめ

・「日帝が病院を減らして、むしろ伝染病を増やした」というのは明らかに誤り
・朝鮮時代にはまともな病院、医者はほぼ無かった
・多くの日本人の努力により朝鮮の医療、医学、育成は進歩していった
・1919年に一時的に減ったのは暴動と規則の厳格化によるもの
・その後は病院、医師数の増加とともに致命率が下がっている
・病院や医療に関しては世界標準以上だと評価された


出典
[1]金谷栄雄 編『黎明之朝鮮』,東亜義会,大正13. p.33
[2]寺畑喜朔『佐藤剛蔵と近代朝鮮医学教育』日本医史学雑誌 第49巻第1号(2003)
[3]釈尾春芿 著『朝鮮併合史 : 一名朝鮮最近史』,朝鮮及満洲社,1926. p.416
[4]同上 pp.416-417
[5]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(前編)-.朝鮮学報.1951.第1輯 p.282
[6]三木栄 著『朝鮮医学史及疾病史』,三木栄,1963. pp.290-291
[7]同上 p.291
[8]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(中編)-.朝鮮学報.1951.第2輯 p.187
[9]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(後編)-.朝鮮学報.1952.第3輯 pp.157-158
[10]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(前編)-.朝鮮学報.1951.第1輯 pp.289-290
[11]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(中編)-.朝鮮学報.1951.第2輯 pp.198-199
[12]同上 p.198
[13]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(後編)-.朝鮮学報.1952.第3輯 pp.164-165
[14]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(中編)-.朝鮮学報.1951.第2輯 p.177
[15]同上 p.176
[16]出口俊一.佐藤剛蔵氏の子孫ら100年目の邂逅.Digital New Deal.2009-02.http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm090225.html,(参照2023 -03-21)
[17]『治療及処方』14(9)(164),治療及処方社,1933-10. p.140
[18]山口精 著『朝鮮産業誌』下巻,宝文館,明43-44 pp.749-750
[19]佐藤剛蔵.朝鮮醫育史 -(中編)-.朝鮮学報.1951.第2輯 p.181
[20]同上 p.182
[21]横田陽子.日本における公衆衛生の「専門職」化.科学史研究.2008,47 p.3
[22]満鮮之医界社 [編]『満鮮之医界』(58),満鮮之医界社,1926-01. p.97


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