見出し画像

日帝が行った ”汚水改善” 水道事業

「日帝は日本人の為だけに水道を整備した」という韓国の主張は本当だろうか。当時の史料をまとめて解説いたします。


日本統治前の飲み水の実態

日本統治前は今の厚生労働省や保健所に当たる機関がなく、衛生の指導や監督は全く行われていなかった。また”はげ山”は夏の干ばつ(井戸の水も少なかった)を助長し、冬は燃料の枯渇が生活を苦しめた。市民の衣食住は必然的に不衛生になって、糞尿は家の敷地にまき散らしたり、路肩に山のように積み上げられていた[1]。その結果「臭気紛々たる井水」と表現されるほど飲み水は汚染され、当時の水質検査では「糞便或いは汚物侵入」が1,484か所中1,231か所で確認された[2]。


近代的な水道の始まり

韓国における水道事業は、1903年大韓帝国皇帝の高宗がアメリカ人のコルブラン(C.H. Collbran)、ボストウィック(H.R. Bostwick)に上水道の独占権利を許可したことから始まる。その後その権利を譲渡された大韓水道会社が1908年にトゥクド浄水場を完成させ、12万5000人に給水を開始した[3]。

左からコルブラン、高宗、ボストウィック


日本居留民による独自対策

当時朝鮮半島に居た日本人も汚水に頭を悩ませており、耐えかねた居留民は共同で領事に嘆願して鎮洞に専用の井戸を確保した。1903年には日本人居留地に私設水道(総工費4,707円、総延長0.7km)が整備された。完成時は「甘露の如く味わえり」と大いに喜んだという[4]。

年々日本居留民が増加して飲料水が足りなくなると、居留民団は私設水道の増築改修工事を決定した。これに対してソウル水道の独占権を持つコルブランはアメリカ公使館を通して抗議すると、日本公使館は「居留地区は韓国政府から何も補助を受けていない。故に他国からも干渉や制限を受ける理由はない」と反論した[5]。そのような中で1911年に渋沢栄一が水道の独占権を買収する[6][7]。


日本による水道事業

1906年統監府は 仁川水道に217万円、 平壌水道に130万円、 釜山水道に117万円の予算をつけて工事を開始し、併合を経て拡張や新設を間断なく行った結果、25年後の1931年(昭和6年頃)には府・道・庁の主要都市68か所になった。水道工事は莫大な予算が必要になるため貧困救済の公共事業として側面も兼ねていた[9][10]。

【完成済み】
京城、仁川、開城、済州、大田、公州、江景、論山、鳥致院、天安、全州、群山、裡里、光州、木浦、麗水、順天、高興、莞島、羅老、金堤、大邱、金泉、慶州、浦項、永川、釜山、馬山、晋州、統営、鎮海、密陽、三千浦、東萊、金海、蔚山、海雲台、長承浦、海州、載寧、延安、黄州、平壌、鎮南浦、安州、中和、新義州、義州、江界、宣川、博川、碧潼、春川、鉄原、平康、通川、咸興、元山、興南、永興、端川、恵山、新高山、清津、羅南、城津、会寧、雄基
【工事中】
(拡張)木浦、光州、京城
(新設)天安、金堤、永川、中和、博川、碧潼、恵山

朝鮮総督府 編『朝鮮総督府施政年報』昭和11年度,朝鮮総督府,昭12至14. p.370


佐野藤次郎の活躍

1904年韓国政府は財政顧問部を設置して財政顧問に目賀田種太郎が就任し、1906年目賀田は水道局技師長に佐野藤次郎を抜擢して水道事業を本格化させた。当時の朝鮮には水道工事に対する理解が全くなく、技術者、資材、器具、機械に至るまで全て日本内地か欧米に頼らなければならなかった。佐野は言葉が通じないなかでも技術員を集め、2か月後には早速仁川水道の測量設計に着手し、7か月後には水源地工事に着工するなど驚異的なスピードで事業を進めた。さらに佐野は自身の研究成果を惜しみなく投入し、仁川平壌水道のろ過地に世界で初めて「グロインド、アーチ」の掩蓋を採用した。これにより冬季の最低気温が-10度を下回る平壌でも凍ることなくろ過性能を維持させることに成功する。また佐野は中島鋭治博士とともに渋沢栄一が買収する予定だった京上水道の適正買収価格の調査を行うなど三面六臂の活躍を見せた。韓国政府は佐野に勲二等太極章を送り、退韓時には土木局長の劉猛氏から感謝状が贈られた[8]。

佐野藤次郎 博士


水汲と韓国側のウソ

1921年ソウルには各家庭で使われる専用栓が6,069個所あった。韓国側はこの数字を悪用して「日本が水道を整備したのは日本人の為であり、韓国人は使えなかったと」主張しているがこれは明らかな間違いである。専用栓のほかに数戸、村単位で使う共用栓が1,897個所あり専用と共用合わせて6万5000戸以上に配水可能であった[11]。 当時ソウルでは水汲が2000人ほどいたと推定されている。彼らが共用栓から水をくみ、わずかな配達代で各家庭の台所の床に埋めておいた大きな甕に水を注いでいた。水汲は配達先で食事をごちそうになる習慣があったので三食ご飯の心配がなかった。このようにしてソウル市民に綺麗な水が供給された[12]。

また総督府は「朝鮮人の風習としてちゃんとしたトイレを設けず所かまわずまき散らし、それが徐々に地層深く浸潤して水を汚染するので、消化器系伝染病が年々各地で流行しているので水質の改良は急務である」と報告している点からも、日本人の為だけに水道を整備したわけではないことは明らかである[13]。


まとめ

・「日帝は日本人の為だけに水道を整備した」は明らかに誤り
・朝鮮では糞尿があたりにまき散らされた為、井戸水は汚染されて物凄い臭いだった
・初の水道は外国人の手によるもの
・しかしそれはソウルの一部の市民のみであった
・全国にきれいな水を届けたのは日本だった
・佐野藤次郎など先人達の偉大な功績を忘れてはならない


出典
[1]朝鮮総督府 編纂『最近朝鮮事情要覧』,[朝鮮総督府],1912.3. p.408
[2]『朝鮮水道水質之研究』,朝鮮総督府京畿道,1919.10. pp.24-25
[3]『서울상수도 백년사』 p.97
[4]『朝鮮水道水質之研究』,朝鮮総督府京畿道,1919.10. pp.26-27
[5]『朝鮮水道水質之研究』,朝鮮総督府京畿道,1919.10. p.27
[6]『朝鮮水道水質之研究』,朝鮮総督府京畿道,1919.10. p.88
[7]『서울상수도 백년사』 p.101
[9]『韓国施政年報』 明治39,40年,統監府,明41-44. pp.277-280
[10]朝鮮総督府 編『朝鮮総督府施政年報』昭和11年度,朝鮮総督府,昭12至14. p.370
[8]『水道』7(2)(66),水道社,1932-02. pp.43-45
[11]朝鮮総督府 編『朝鮮総督府統計年報』大正10年度 第4編,朝鮮総督府,大正12. pp.70-71
[12]지역N문화「수돗물이 공급되다」https://ncms.nculture.org/legacy/story/2818,(参照 2023-02-26)
[13]朝鮮総督府 編纂『最近朝鮮事情要覧』,[朝鮮総督府],1912.3. p.444


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?