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2024/2/6 月1ワークショップ 【第5回】 レポート

前半4回が「安心」をテーマにしてきた内容から、後半は「緊張」がテーマになり、直接人に触れる/触れられるというだけでなく、人に見せる/見られるときに生じる緊張について、動きと対話を行き来しながら、皆で取り組みました。

「緊張」について言葉にしてみる

まず各々空間を歩きながら、様々な角度から人を見たり、近くで見る/遠くで見る、触れにいってみる中で、どんなときに「緊張」が生じるのか、皆で言葉にしていきました。

・人をまじまじ見ることに、見ていいのかなって気持ちになった。
・自分の緊張が相手にうつる気がして、皆に自由でいてほしいから、自分も自由でいたいと思うと逆に緊張しちゃう。
・人にジロッて見られることが好きじゃない。
・見るのは大丈夫だけど、見られていることに緊張する。
・触れられるのは全然大丈夫なんですけど、触れにいくのは難しい。
・人を見るって緊張する。見られているって思われるのは、嫌なんじゃないかって思ってしまう。
・予期せぬところから相手が来たり、スピードが速かったり、ちょっと強くぶつかったりすると、ドキッとする。
・相手が自分をまだ受け入れる準備が整ってないだろうって時に触れに行く瞬間が、ドキドキした。なんか申し訳ないって思う。
・見るってこととか、触りに行くってことの暴力性みたいのを感じてしまうけれど、どうなんだろう。
・ジッと人を見るって、なんか悪いなって思っちゃう。若いころはもっと、ジッと見られることで不愉快になった思いがけっこうあったので、人のことをジッと見るって難しい。
・人と目があうと緊張して、人と目があった瞬間、触れる手を引っ込めたりとか、目があったらなんかごめんなさいみたいな気持ちになる。
・途中で、目線で触れてないなっていうことを考えました。それって、ちょっと失礼っていうか、ちょっと物のように触れているような感じもする。あとは、触れられるって、その瞬間、自分が選ばれたって思うと、なんか緊張する、みたいな。自意識過剰なんでしょうけど。

■戯曲を用いて「役」を重ねて相手を「見る」

また後半ではAAPAが6月の公演にむけて取り組んでいるメーテルリンクの『interior(室内)』の戯曲を用いて、「役」を重ねて相手をみるということをしました。5人1組に分け、家の中にいる年のいった「父」と「母」と、2人の「若い娘」、そして裏庭から家族の様子をみている「老人」の役を、実際の年齢や性別や特徴とは関係なく決めます。女性が「父」をやるかもしれないし、若い方が「年のいった母」の役をやることもありえます。
役を決めたあとは、自分の役を演技することはせずに、周りの人の役をしっかりと覚えて、その人を見る時にそれぞれの役を相手に重ねて見るということに集中します。そして、家の中にいる父、母、若い娘の4人は、周りにいる人を観察しながら歩くことからはじめ、しばらくしてから段々と触れていきます。触れている相手の役を、きちんと思い出しながら。例えばすごくからだの大きな男性が娘役をやっていたとしても、娘として見て、触れる。そう見えるまで待つ、または、見る角度を変えて見たり、ある部分だけを見てみたり、あるいは、まず触れてみて、娘だなと感じるまで触れみる、いろいろな触れ方をしてみる等、試してみます。老人役は、この4人が部屋の中にいるのを、外から観察し、心の中で、または可能であればば声にだして、見ている人たちの印象を言葉にしていきます。

普段はやらないワークに最初は混乱や戸惑う声が参加者からありましたが、何度かワークを繰り返して、質問や気づきを共有し、それぞれに感じ事を言葉にしていきました。

・同じ娘であっても触れ方によって、自分の触れ方とか動きも違ってくる。反抗期の娘はちょっと遠くから見守って、ちょっとずつ近づくみたいな。離れられたら無理に近づかない、みたいな。
・すごい観察した。例えば、この人はお父さん役だったんですけど、年老いた男の人の手ってこんな感じなのかなって、なんかそういうことを考えていて、家族っていう感じよりは、観察したって感じがしました。
・見るっていうのと、触るっていうので得られる情報って全然違う。
・相手はお父さんだったんですけど、最初はなんとなくそっけない感じ。生きている人間に触れているというよりは、ロボットとか、亡くなった人に触れているみたいな。介護したことはないんですけど、こういう感じなのかなって思いました。家のおじいちゃんを私のお母さんが介護しているんですけど、こんな感じなのかなって、それをすごい思い出して。なんでだろう。からだのことなのに。相手を見ながら、相手が居心地よいようにとか、危なくないようにとか、すごい観察したなって思いました。
・最初は母親や娘ってどういう感じなんだろうって意識していたんですけど、途中からあまり関係なくなって、感じるままに。感じたことは、滑るとか流れるとか、そんな感じがした。自分が社会にいる中で感じる若い娘っていうイメージはわかなかった気がします。流れ、、、ですかね。水みたいな。滑るみたいな。あまり人間としては見えなかった。なんか、織物みたいな。
・お父さんをイメージするときに、どうしても自分の現体験みたいのが先にでてくる。年老いたお父さんだったら、わたし嫌かもって思ったりするけれど、でも実際に触れている感触はすごく気持ちが良くて、なんかすごくあったかい気持ちになるみたいな、自分のなかでどうしていいかわからないことが起きていて。なんか、自分のなかのお父さんのイメージがすごい変わったり、動いたり。

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対話とワークを行き来するなかで、目の前の人の性別や年齢、身体的な特徴に関わらず「父」「母」「娘」といった「役」をそのままに受け入れて、そのように「見る」ということへの違和感について語られたり、
自身の役を演じる必要はないといわれていても、その設定に引っ張られて、そのような振る舞いをしていたり、自分の動きについて躊躇が生まれたりする様子も語られました。
割り当てられた役と目の前にあるからだとの間で、属性に対する自身のイメージに気づいたり、ただからだを見るということについて考える時間となりました。
自分の中に生まれる違和感や躊躇といった緊張を持ちながらも、それを別の形で解消しようとするのではなく、そういうものだと受け止め、しっかりその場で感じる、観察する、もっと見てみる、触れてみる、そうすることで「あぁこういう人なのかもしれない」と見つかる面白さや新しさということについて、考えていけたらと思いました。


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