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藤島亥治郎(前篇) 近代建築の目撃者/佐々木宏編 建築の書架から  その8

今日のnoteは、先日の土浦亀城氏に続きで同じ時期に欧米へ遊学し、近代建築を見聞した藤島亥治郎先生の話から要約したものだが、さながら近代建築史の授業の様になってしまった。なので、近代建築に興味のない方は、ここで離脱をおすすめします…著頬。
それにしても、書いていて思ったのは学生時代に武藤先生の近代建築史の授業で学んだことばかり…ああ、あれもこれも先生のスライド!で見たな…というものばかり、もしかして武藤先生も藤島亥治郎先生の授業を受けていたか?
記載点数が多く、今日は前篇でモダニズムとアール・ヌーヴォーを、後編は表現主義からオーストラリア・セセッション等を取り上げる。



藤島亥治郎 1926-1928
1899年岩手県盛岡市生まれ。帝大卒業後、朝鮮・京城高等工業学校に助教授として赴任。1926-1928在外研究員として欧米渡航。帰国後帝国大学で建築史を教え、文化庁文化財建造物保護技術協会理事、国宝保存会で活躍。

藤島亥治郎先生は、建築史家であり、1926年から欧米で最先端の建築を見聞し、帰国後国内で紹介した。その幅は広く、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、アムステルダム派、モダニズム・コルビュジェまでインターナショナル前夜を網羅する。以下、「近代建築の目撃者/佐々木宏」でインタビュー中に出てくる建築家と代表作を羅列する。

モダニズム建築
コルビュジェ
ワイゼンホフ・ジードルンク @シュツットガルト

コルビュジェ / ワイゼンホフ・ジードルング 

モダニズム建築史でその嚆矢となる、ヴァイセンホーフ・ジードルングだが、ミースが全体配置設計を担当し、招待された建築家もコルビュジエ、グロピウス、シャロウン等後の近代・現代建築へとリードしていく錚々たるメンバーだった。

1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展覧会で、シュトゥットガルト郊外ヴァイセンホーフの丘に建設された実験住宅群である。ドイツを中心に17人の建築家が参加し、モダニズム建築の実践の場となった。
ミース・ファン・デル・ローエが全体計画を立て、ミース、ル・コルビュジエグロピウスアウトシャロウンらの設計による住宅が建設された。

ヴァイセンホーフ・ジードルング - Wikipedia

ロベール・マレ・ステヴァン パリのマレ=ステヴァンス通りフランス語版)の集合住宅6戸(Hotels particuliers de la rue Mallet-Stevens)

ロベール・マレ・ステヴァン / パリのマレ=ステヴァンス通り(フランス語版)の集合住宅6戸(Hotels particuliers de la rue Mallet-Stevens) 


マレ・ステヴァンス通りの集合住宅

トニー・ガルニエ

「Une cité industrielle (工業都市)

フランスのリヨンを中心に活躍。「工業都市」で近代都市計画案を示し、それ以降の都市計画に大きな影響を与える。


ペレー兄弟 フランクリン街のアパート
(オーギュスト・ペレ+ギュスターヴ・ペレ+フランソワ・エンヌビック+アレクサンドル・ビゴ)
世界初のRC造集合住宅

フランクリン街の集合住宅 


オーギュスト・ペレ / ノートル・ダム・デュ・ランシー

オーギュスト・ペレは鉄筋コンクリート造に芸術性も取り入れ、近代建築の新しいスタイルを造った。上のフランクリン街のアパート、ノートルダム・ランシーは、正に鉄筋コンクリート造の嚆矢である。


アール・ヌーヴォー
エクトール・ギマール ガール・ド・ノールのメトロ駅

エクトール・ギマール/ガール・ド・ノールのメトロ駅

パリの地下鉄は1900年につくられた。当時、アール・ヌーヴォーが時代を席巻していた。そして、オースマンの幾何学的なデザインへの抵抗もあり、地下鉄の施設の意匠は、当時、アール・ヌーヴォーの建築家として名を馳せていた建築家エクトール・ギマールが担当した。ギマールが設計した地下鉄の入り口は、繭のような形状に、花弁のようなガラスの庇が覆い被り、建物には蔦のような意匠の鋳鉄が絡みついているようなものであった。1900年はパリ万博を開催した時期とも重なり、当時の新素材である鉄やガラスを利用したことが特徴であり、それはパリッ子だけでなく、パリを訪れた多くの人に驚嘆をもって迎えられた。

 しかし、第一次世界大戦後にモダンデザインが普及し、アール・ヌーヴォーは時代遅れなデザインとして忘れ去られる。ギマール設計の地下鉄駅も二駅(16区にあるポルト・ドフィーヌ駅と18区のアベス駅)を残してすべて取り壊されてしまった。1960年代になると、今度はアール・ヌーヴォーのリバイバル運動がアメリカで起き、それが再評価されるようになると、パリのギマールが設計した地下鉄駅も見直され、それが複製されることになる。

 パリの地下鉄駅は、地下鉄という公共施設であるため、多くの人が利用する。そのような施設において、アール・ヌーヴォー時代のパリを思い起こさせるこの地下鉄駅の意匠は、都市の貴重な記憶を継承させる装置としても重要な役割を担っていると考えられる。
 特に、取壊を免れたポルト・ドフィーヌ駅とアベス駅はオリジナルな姿を今日に伝え、建築文化遺産としても重要な存在である。
 1978年にはパリに実在するアール・ヌーヴォーの作品のほとんどが歴史的記念物として登録されている。

High-Life 都市の鍼治療から


ポール・セディーユ / マガザン・ド・プランタン @パリ

マガザン・ド・プランタン(右)
マガザン・ド・プランタン 内部吹き抜け

時は19世紀後半、パリの大改革を進めたナポレオン3世の時代の1865年にプランタンはオープンしました。当時はまだオペラ座が建設途中でした。1872年には通信販売も開始し、カタログによってパリ遠方に住む人でもプランタンの商品を購入することができました。1888年にはパリ市に先駆けて新技術である「電灯」(電気)を取り入れるなど、ファッションの街パリをリードする斬新な店として改革を続けてきました。買い物には興味ないという人でも、建物を見るだけでも一見の価値があります。建築家ポール・セディーユによるアール・ヌーヴォー様式の装飾と丸い屋根が特徴で、1907年にできたモード館のクーポール(丸天井)は美しいステンドグラスで飾られ、現在歴史的建造物になっています(1975年に登録)。

Paris-rama パリ観光サイト「パリラマ」から引用


ギャラリー・ラファイエット

ギャラリー・ラファイエット 

ギャラリー・ラファイエットは、テオフィル・バデとその従兄アルフォンス・カーンによって1893年にオープンした商店が始まりです。1894年にはラ・ファイエット通りとショセ=ダンタン通りの角に「ギャラリー・ラファイエット」としてお店を構えました。左岸にある「世界最古のデパート」ボン・マルシェができてから40年後のことでした。ちょうど同じ頃に、近くのサン・ラザール駅が鉄とガラス素材によってリニューアルオープンし、ギャラリー・ラファイエット周辺は多くの人でにぎわいました。
時代はベル・エポック。当時の女性たちを魅了する商品(リボン、手袋など)が売られ、それらの商品はその近くで働く女性たちに大変人気となりました。1896年にはラファイエット通り1番地を買い上げ、1905年にはオスマン通り38・40・42番地、ショセ=ダンタン通り15番地も買い上げ店舗を拡大。1906年には建築家ジョルジュ・セダンにオスマン店(本館)のデザインを依頼。1912年には現在も残るネオビザンチン様式の丸天井(ガラスのドーム)が完成します。このときにアール・ヌーヴォー様式の家具で知られるデザイナー、ルイ・マジレル(Louis Majorelle, 1859-1926)による木の葉のデザインの手すりや優美なエスカレーターの灯りも作られました。その後、売り場と商品は増え、男性用の服や家具・照明・旅行用品・写真・玩具などが売られるようになり、ギャラリー・ラファイエットは発展していきます。デパートの最上階には喫茶室、本屋、美容院が入り、訪れた人が息をつける場所になります。1950年にはフランスの国民的歌手であるエディット・ピアフがデパートを訪れ、平和への願いを込めて「愛の賛歌」「バラ色の人生」「美しい恋の物語」を歌いました。1952年から1956年にかけて、本館に初のエスカレーターが設置され、デパートは徐々に現在の形に近づいていきます。1958年には初めてセールを行って好評を博し、恒例化し現在も続いています。1969年にはメンズファッション館がオープンし、このときに地下鉄直結のシステムが確立されます。1974年には古き良き時代の大階段が取り払われ、1984年には地上階が改築されてブランドブティックが完成。ほぼ現在と同じ店内になりました。1996年には創業100周年を迎え、現在も革新を続けるパリのデパートとして多くの観光客やパリっ子が訪れています。

Paris-rama パリ観光サイト「パリラマ」から引用


エッフェル塔

エッフェル塔


エッフェル塔




ヴィクトル・オルタ オルタ邸 アパート@ベルギー

ヴィクトル・オルタ オルタ邸

以下 後編に続く

高層建築
マドリッド
ホッホハウス(ヤコブ・ケルファー作)@ドイツ・ケルン
高層オフィス建築(ボーナッツ)@デュッセルドルフ

表現主義
ハンス・ペリチッヒ ベルリン大劇場
エーリィヒ・メンデルゾーン アインシュタイン塔@ポツダム、ベルリナー・ターゲブラット新聞社
ボーナツ
レストラン・バスタイ@ケルン・ライン川沿い
フリードリッヒシュトラーセ@東ベルリン
シンケル ハウプト・ワッヘ戦没者廟
シュルロッテンブルグのマウソレウム
チリー・ハウス@ハンブルグ フリッツ・ヘーゲル

国際建築会議(CIAM)
H.P.ベルラーヘ アムステルダム株式取引所
コイペルス アムステルダム中央ステーション、国立美術館

ウィレム・M・デュドック 田園都市ヒルベルスム 集合住宅、公共浴場

アムステルダム派
クラーク 塔の立つアパート、シェヘニンヘンの田園住宅
クラメール
ブレーメン ボェッチャー街 パウラ・ベッカー、(モデルゾーン・ハウス)ベルンハント・ホエトガー教授、(ハーグ・ハウス)ルンゲ

ドイツ表現主義
ウィルヘルム・クライス プラネタリウム@ライン川沿い
エミール・ファーレンカンプ シェル石油会社@ベルリン
ボーナツ シュツットガルト駅


構造主義
ハンブルグ中央駅
ローマ・エスタチオーネ・テルミニ(終着駅)
ブレスラス市場A
A.E.Gタービン工場 ペーター・ベーレンス

ウィーン・セセッション
オルブリッヒ セセッション館、ダルムシュタット芸術家村
オットー・ワグナー シュタイホフの精神病院の礼拝堂と郵便局
ホフマン ストックレット邸
ダスターフ・クリムト 壁画

A.ペレー ランシーの教会 RC造打ち放しコンクリート
エストベリ ストックホルム市庁舎
シュツットガルト ワイゼンホフのジードルング
ボーナッツ シュツットガルト駅
サーリネン ヘルシンキ駅

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