見出し画像

映画「祝日」と自殺阻止

先行上映で映画「祝日」を観ました(5月10日)。富山以外の地域は2024年5月17日(金)からだそうです。
この映画は伊林侑香監督の二作目の作品となっていて、前作「幻の蛍」がよかったので、ぜひ観ようと思っていました。後に知ったのですが、脚本も同じ人だったんですね(伊吹一脚本)。

結果、よかったです。
評価は「5:大絶賛!」。(基準・・・5:大絶賛! 4:もう一度観たい 3:まぁよかった 2:よくなかった 1:二度と観ない)。
映画評価で5をつけることはあまりないのですが、4よりやや高い、ギリギリ5くらいな感じです。

言い換えると私の好みにはまったということでもあります。
万人受けするかというと、どうかな。。でも「幻の蛍」よりは一般の人に高く評価されるんじゃないかなと思います。
ちなみに私としては「幻の蛍」の方がちょっとだけよかった。でもちょっとだけだし、観た直後の感覚としては同じでした。私としては次の作品ではもう少し方向変えてほしいなと思いますが。

「幻の蛍」もそうでしたが、「祝日」もまたすごーく坦々(たんたん)としています。言い換えると盛り上がりに欠けます。
それがつまらなくて途中で寝てしまったり観るのを止めたりする人も多いと思います。これから観る人はそういう作品なんだと思って覚悟して?観てもらえればと思います。
おすすめポイントとしては、主人公・希穂の表情が初めと終わりで結構違う――そんなに変わらないけど(笑)——ことに注目してもらえると少し楽しめるのではと思います。

映画「祝日」

ストーリー

映画.comそのままコピペ)
14歳の奈良希穂は、中学に入ってからずっと1人きりで暮らしている。優しかった父は亡くなり、母も姿を消した。希穂は怒ることも泣くこともなく、毎日野菜ジュースとプリンだけを食べながら無為に過ごしている。ある日、休校日なのに登校してしまった彼女は、何かに突き動かされるように校舎の屋上へ向かう。そして飛び降りようとした瞬間、何者かが希穂の手を掴む。その女性は自分のことを「希穂とずっと一緒にいた天使」だと名乗り、希穂は彼女と一緒に“人生最期の1日”を過ごすことに。次々と現れる風変わりな人々との交流を通し、希穂の心は少しずつ揺り動かされていく。
-------------------------------------

書いてはいませんが、ラストは暗に明示されているようなものです。ただ自称天使(馬場さん)は誰なのか、なぜ主人公・希穂を救おうとするのかは謎なので、それをミステリーとして?楽しむのもアリかもしれません。

以下、概ね映画の場面に沿って細かく見ていきますが、ネタバレになるところで警告します。

予告の冒頭で

映画「祝日」予告編を観ると、冒頭で「死にたいわけでもないけれど、生きたいわけでもなかった。」と表示されます。たぶん(予告なのに)映画本編にはないフレーズだったと思うのですが(あったらすみません)、私は半分「あれ?」と思いました。
というのも、自殺者というのは、どうしようもない袋小路に追い詰められ、もう死ぬしか選択肢がない、生きたいけど死ぬしかないと泣き崩れながら死を選ぶものだと思っていました。ところが主人公・希穂は「死にたいわけでもないけれど」自殺しようとします。
あれ?死にたいわけでもないのに死ぬんだ、と少し意外に思いつつ、確かにそれも自殺の動機にはなるよね、とも思いました。

自殺の動機として前者を「絶望タイプ」、後者(この映画の希穂)を「自暴自棄タイプ」と仮にすれば、「絶望タイプ」は突然に、「自暴自棄タイプ」はじわじわと死を考えるように思います。何かがあって「この人は自殺するかも」と思い食い止めたとしても、それで安心できるわけでなく、その後の生活が安定しなければ自殺のリスクはある、ということです。
「あの人は死にたいと思っていないので大丈夫」とする人もいますが、この映画の希穂のように、もういいやと死を選ぶ場合もあるでしょう。その場合は死んでも誰にも気づかれず数ヶ月経ってからしか発見されないかもしれません。
「生活保護は甘えだ」という心ない人もいますが、それで生活保護受給を躊躇(ちゅうちょ)させられる人こそ自殺のリスクが高いことを改めて認識すべきと思います。

父の自殺

希穂の父は富山市職員でしたが、汚職?が明るみに出、その身代わりとなって死にます。
とはいえ、前時代的に「XX課長のために死んでくれ」などと命令されたとは考えにくい(1980年代くらい?まではそういう設定でも何ら違和感なかったけど)。全く描かれていないものの、おそらくは記者会見の席で謝ったとかなにかでSNSに火がつき、本人はもちろん家族にも被害が及んでいたのではないか?と想像します。
希穂に友達がいないことも、父の死と無縁ではないでしょう。父も「仕事上の責任だけを苦に」というより、「家族にもこんなにも迷惑をかけるなんて申し訳が立たない」と自殺を選んだように思います(先に書いた「絶望タイプ」)。

父親が物心つく前から暴力的だったら、希穂はもしかすると世間を斜めに見るやさぐれた/たくましい性格になっていたかもしれません。あるいは恨みに値する父なら、「やっと死んでくれた」なり「いきなり死にやがって」なり思い、仕方なく生きようと考えたかもしれません。
「優しかった父」(と書いてある)は最初から最後まで優しいままだった、なのに突然死んだからこそ、希穂はどうすればよいのか途方に暮れたまま、映画冒頭を迎えることになったと思います。

その延長線上で、途中で希穂の同級生が、希穂と対照的な性格の持ち主として登場します。その同級生の生い立ちなども全く語られていませんが、その人も希穂と同じ多くの不満を抱えているにも拘わらず、希穂と違って「むかつく」「死ねばいいのに」と口にします。そのことは、また別の場面でのアフロさんの「次はむかつくって言ってやんな」(だっけか)というセリフにつながっているように思います。
このあたりが監督の主張あるいは問題提起なのかなと思っています。

母の失踪

母は父の死後、新興宗教にのめり込んで姿を消します。
3分も満たないシーンなので気に止めてなかったのですが、よく考えてみるとここもちょっと「ん?」と思うことがあります。
娘(希穂)の前で洗礼らしき儀式をした後、自宅から宗教団体の人に誘われてワゴン車に乗り込む母。乗り込む直前に娘(希穂)に気付き一瞬ためらうものの、周りに促されてワゴン車に入ります。
あれ?娘は連れていかないの?
以前統一教会問題で「宗教二世問題」が話題になりましたが、親が入信したとき子どもも同じ宗教団体に入信させ、宗教的な?虐待をしているというのがとりわけ問題でした。
もし親がその宗教に心底陶酔していたら、当然のように娘も入信させるはず。なのにしなかった。それはなぜ?

これは、ワゴン車に乗り込む直前に一瞬ためらったことにヒントがあるのかなと思っています。つまり母は入信こそしているけど、娘に対してはもとの母でいて、ああ申し訳ないことをしている、と思っている。自分(母親)はこの宗教に身を捧げるけど、娘は自分と関係なく生きていって欲しい。そのために自宅(アパート)をそのままにしておいたのではないでしょうか。
もしそうだとすると、母は娘を見捨てたのではなく、「これからは一人で生きていって欲しい」と伝えようとしたのでは、とも考えることができます。仮に、母親と共に宗教二世として入信していたら、虐待するかはともかく、希穂はまた別の人生を歩むことになっていたかもしれません。
そう考えると、希穂はそんなにいうほど不幸でない、とも言えるかと思います。

さて、映画冒頭5分くらいだけでけっこう書きましたが、ここからはネタバレエリアです。まだ観ていない方は、観た後またお目にかかりましょう。別に気にしないという方は続けてお読みください。

+++++++++++++++ここからネタバレ注意+++++++++++++++++

レジ袋と鼻血

希穂が学校に向かう途中、レジ袋が風に舞うシーンがあります。けっこう長いシーンで、監督が何かを伝えたいことは明らかと思ったものの、何を意図しているのかわかりませんでした。
それは何か、最後のシーンと繋がっているので後で話しましょう。

自称天使・馬場さんが初めて登場するシーン。鼻から鼻血が。
「え?なぜ鼻血出ているの?」と疑問に思ったのですが、特別解説もないので、ずっと疑問を抱えたままでした。
これも最後のシーンと繋がっているとはいえ、それだけでは疑問を払拭できません。
それで考えたのは二つ。一つは、監督が笑いを仕込んでいたのではないか。いざ死のうとしている深刻なシーン。振り返ると鼻血を垂らした女性が立っている。クスッと緊張がほぐれる。そういう効果を狙っていたのではないか? ・・・そうね、小学生中学生とか、または関西の方なら笑う人いるかもね。でも私は笑えず、血の痛々しさに心配すらしていました。
もう一つは自称天使の正体へのヒント。いや、ヒントになっているのか、それで一応説明はつくよね程度ですが。これも後から書きます。

死ぬなら明日

死のうとする希穂に馬場さんは声を掛けます。「死ぬなら明日の方がいいよ。」
ん? もし目の前で死のうとしている人がいたら、こんな声かけるでしょうか。なのに馬場さんは「窓から手を出すと危ないよ」という程度のノリで自殺を静止している。どうも違和感がある言葉ですが、これも自称天使の正体へのヒントになっていると思います。

ただ、これは自殺しようとしている人の声掛けとしてアリかもしれない、とも思いました。少なくとも、大騒ぎして「なぜこんなことするんだ!」と怒って制止するよりも、本人の気持ちに寄り添う声掛けになっていると思います。
「絶望タイプ」に対しては取りも直さず話を聞く(傾聴する)ことが重要でしょう。本人も、いかに絶望にさいなまれているかを誰かに聞いてもらいたいという側面が、少なからずあるのではと思います。
でも「自暴自棄タイプ」へはそういうわけにはいきません。希穂のように現実に疲れ果てていたら、理由を訊いても「別に」か「疲れたから」くらいしか出てこないのではないように思います。そのため「明日の方が」とすることで、じっくりと説得の時間を確保し、解決方法を探ることができるのではないでしょうか。
もっとも、希穂に「え? どうして明日の方がいいって言うの?」と訊かれたら回答に困るでしょうし、映画の中でも馬場さんがどう回答するのだろうか?と期待したのですが、希穂に無視されてしまいました。

そのあとの希穂と馬場さんとの嚙み合わない会話も、一応、自称天使の正体で説明はつくとは思っています。

一緒にいて不快に思わない存在

公式サイトのPRODACTION NOTE「制作過程と演出」に「希穂の心境の変化を映し出すために、感情を10段階に演じ分けるレッスンを行った」とあります。ええーーっ まじで!?
すみません、とても10段階とは思えませんでした。多く見積もっても3~4段階くらい。希穂は最後のシーンを除きずっと無表情。でもほぐれてきているなとは思いました。特に口数が最初と最後で変わっています。

希穂以上に、変化していたのが馬場さんです。
初めは「最期の日なんだから何かしよーよー」と希穂の後ろをついていくだけなのに、喫茶店を出るあたりから並んで歩くようになり、最後の方は希穂より前に歩いている。逆じゃねえか(笑)
馬場さんは何をするわけでもありません。もし自殺欲にさいなまれた人を救うのが使命だと思っている人なら、やたら明るく振舞ったり喜ばせようとしたりするように思います。ですが馬場さんは、鏡を見て手を振ったり土ダルマを作ったり、希穂の存在を忘れているかのような行動をしています。
この馬場さんの態度こそ、自殺を考えている人に寄り添うものではないかと思います。つまり、本人を単に支えるのではなく、ましてや自殺を阻止できればそれでよしとするのではなく、同じ速度で横を歩いている「伴走者」というべき存在が重要になっていると思います。

後のシーンで、アフロさんは車の中で二人の関係について訊きます。そこで希穂は「仲のよい、いとこみたいな感じです」と答えます。
え?「仲のよい」って言った? ということは仲がよい関係とみられてよいってことだよね?
このシーンが私はすごく好きでニヤニヤしながら泣きそうになるのですが(変かも)、馬場さんというただ一緒にいて全く不快に思わない存在こそが、求められる「伴走者」のように思えるのです。

希穂と相似の女の子

図書館の前でハッピバースディの鼻歌を歌いながらアリを見ている小学生の女の子に出会います。「このアリ今日が誕生日だから」というその子に馬場さんは「優しいね」と言います。でもその子は「違うよ。アリを踏んづけたから悪い子だよ」と返します。
一方、後のシーンでアフロさんは希穂に「死ねって言わないだけ十分優しいよ。そういう優しい人が苦しむ世界なんだよなあ」(だっけか)と言います。
観ているときは何も思わなかったのですが、今思うと「優しい」この女の子は、「優しい」人である希穂と相似の(似た)存在として位置づけられているのでは、と思いました。

最後の方のシーンで、この女の子と同級生が姉妹と判明しますが、そこで妹(女の子)は姉(同級生)に無理やり連れて行かれます。
・嫌なのに連れていかれる女の子 と、
・母に見捨てられた希穂 は、
どちらが幸せだろうか。見た目上は姉の世話になっている女の子の方が幸せに思えるけど、実は一人ぼっちで生きる希穂の方が幸せではないか。
ここも監督が主張したかった点ではないかと思っています。

自称天使の正体

ということで、馬場さんは本当の天使だった、という話でした。
公式サイトのPRODACTION NOTE「最後に」で監督は「自分の創る作品で観た人の心を救いたい」と書いています。「家族を失い、友達もいない希穂と似た、孤独を感じている子どもたち」(by PRODACTION NOTE「初動」)に「一人ではない」「そっと見てくれている人がいる」「誰かにいつも励まされている」といったメッセージを、監督は映画を通じて伝えたかったように思います。

馬場さんが最初に登場するときの「死ぬなら明日の方がいいよ」という違和感のあるセリフや、希穂との初めの嚙み合わない会話も、馬場さんはずっと前からそばにいて、当然のように希穂に気付いてもらっていると思っていた(けど希穂は気付いてなかった)と考えると合点がいきます。
最初に鼻血を出していたのも、希穂の突然の行動に動揺し、とっさに身体を得たがためと考えると、一応筋は通るかなと思います(ちょっと無理があるようにも思うけど・・・)。
あとレジ袋。誰もいないけど、誰かそこにいるような気がする、それが天使だった、ということを表していたのでしょう。最後にまたレジ袋にまみれるシーンがそれを表していると思います。

最後のシーンで姿を消した馬場さんは、本人が言ったように、本当に死んだのでしょうか。
いいえ、レジ袋が舞っていることが象徴するように、いなくなっても馬場さんはずっと希穂のそばにいるのでしょう。それがわかるから、希穂は最後の最後でようやく笑顔になれたのではないでしょうか。

「ごめんね」

でも、見ているだけで何もしない天使って、いても意味ないんじゃないか、と思いませんか。それに対してもこの映画は答えています。

小学校時代の通学路であった河川敷に座っているとき、希穂は「ずっと見ていたんですか」そして「天使は嫌いです」と言います。なぜでしょうか。
明確には描かれていないものの、希穂は暗に「どうしてこれまで何も助けてくれなかったんだ」「天使がいたのならもっと早く助けてくれれば、こんなにも苦しむことはなかったのに」と訴えていたように思います。
それに対して馬場さんは言葉少なめに「ごめんね」と言います。けっこう明るめのキャラである馬場さんが、珍しく罪悪感を抱えるシーンです。場面を変えてたぶん二回は言っていたんじゃないかな。
「ごめんね」は、けっこう重いセリフのように私は感じました。

ただ、馬場さんの罪悪感とは裏腹に、希穂は「天使も悪くない」と考えを変えていると思います。白線遊びと並ぶ「ぱいなつぷ、るぅー」と走る馬場さんのシーンは、希穂との信頼関係がないとできないことだと思います。もし最初の二人の関係で希穂が同じことをされたら、希穂は馬場さんを追わなかったことでしょう。
このことから希穂は後から、「天使は確かに何もしないけど、ただいるだけで安心する存在かも」と気付いたように思います。そう、馬場さんはただ一緒にいるだけで全く不快に思わない存在だ、と。
孤独を感じ、疲れて自殺を考えたとしても、馬場さんのような天使がいつも見守っているかもしれない。だから死なないで。監督の主張はそのあたりにあるように思います。

「祝日」というタイトル

最後に「祝日」というタイトルについて。
「ある祝日での出来事」という意味かもしれませんが、これまでとは違う一日、この苦しみがずっと続くのだろうからもう終わりでいいやと思ったけれど、馬場さんと出会ったことで、これまでと同じだけど違う生き方ができるかもしれない、もう一度生きてみようと思えた特別な一日、それが「祝日」だったのではないかと思っています。
この映画が少しでも多くの自殺阻止につながることを切に祈っています。

追伸。義務教育時代に国語がとても苦手だったので、つたない表現ばかりでいつも長くなり申し訳ありません。最後まで読んで頂きありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?