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「配慮」について考えた

先日(2024年4月27日)、オンライン哲学カフェ「スケッチ」に参加しました。この日のテーマは「対話と配慮」。あまり考えたことのなかったテーマだったので、覚書としてまとめておこうと思います。

「配慮」の定義は

初めに、テーマを提案したAさんが提案に至るエピソードを話してくれました。

Aさんは介護関連の仕事をされているそうですが、車椅子の利用者と外出している際「疲れたので手伝ってほしい」と頼まれたそうです。介護の担当者であるAさんは「車椅子を押すことは簡単だが、本人のためにならないのではないか」と迷った、とのこと。そのときの「手伝うことが配慮なのか、手伝わないことが配慮なのか」という疑問から、今回のテーマを思いついたとのことでした。

参加の前に私は、配慮とは「人に少しだけ手助けをすること」と考えていました。でもAさんのようなことは考えていなかったので、考え込むことになりました。


そこにBさんが「相手の立場を考えること」が配慮なのではと発言。

なるほど、行動ではなく考えた時点で配慮していると言えるのではないか。確かにそうかもしれません。

そのときCさんが「電車で足の不自由な人が乗ってきて、席を立って譲るかどうかで迷い、結局立たなかったとすると、それは配慮したと言えるのか」と発言。

あれ? そうか。言えないのかな。

行動が伴わないと配慮は見えない。いわば配慮した「つもり」になっているに過ぎないのではないか。


加えてBさんは「自分では相手の立場を想像しても、あくまでも自分の中だけなので、相手の思っていることと同じとは限らない。ある意味で自己満足ではないか」とも発言しました。

後に自己満足の例としてBさんのエピソードも紹介。偶然入ったエレベータで、近所のおばさんがボタンを押し、「配慮してあげたでしょ」とさも得意げな顔をした。会釈はしたけれど、簡単なことを勝手にされただけなのでとても感謝はできなかった、と。

確かに、自分では配慮したと思っても、相手にとっては不十分あるいはかえって迷惑なこともありますよね。おせっかいに映ればなおさら閉口してしまいます。


では配慮が自己満足ならば、「自分に配慮する」ということはないのでしょうか。いや、ありますよね、健康管理とか。

それに、寝たきり状態や植物状態にある人など相手の意思を十分に確認できない場合、自分なりに配慮するしかありません。つまりどうやっても自己満足以外にしようがないことになります。

それを含めてどう考えればよいのでしょう。

「配慮」を別の角度から

そこで私は「自発的に席を譲ったら配慮、「譲ってください」と頼まれて譲るのは配慮ではなく単なる応答だ」と発言。また「最初の例のように、頼まれたけれどためらう場合は“二次的な配慮”ではないか」とも。

自分で発言しておいてなんですが、話を複雑にしてしまい失敗したと思っています。


そのあたりでBさんは、別の角度から「親子ならあまり配慮しなくてよいが、仕事の人間関係ではかなり配慮しなくてはいけない。相手との関係によって配慮の度合いは異なってくるのでは」と発言。

Dさんもまた別の角度から「配慮は利己なのか利他なのか」と問題提起。それに対してCさんは納得しつつも「配慮は利己の側面も利他の側面も両方あるのでは」と返します。


またAさんも、別のエピソードとして「前に私は、利用者のためなら何でもやっていたけど、先輩から「お前は福祉の仕事に向いていない」と言われた。そのときはどういうことかわからなかったが、後になってだんだんわかってきた」と発言しました。

Aさんは福祉の仕事を生きがいのように感じていて、人の世話をすることが楽しく、相手のためにならないこともして(しまって)いた。エゴ(利己)はなく、全部先回りしてやっていて、それが配慮なのかどうかも考えてなかった。だけど後になって、それではいけないのではと思うようになった、とのことでした。


最後の方でBさんは「人を配慮することによって、人の役に立ったり、喜ばれたり、感謝されたりする。それは何より嬉しいし、快感でもあるし、「人の役に立った」と自分の存在価値を確認したように思える。人間は社会的な動物だから、配慮はどこか本能的に備わっているのではないか」と発言しました。

なるほど、確かにその側面はありますね。


改めて「配慮」とは

話を終えてから、私なりに改めて考えました。以下私見です。

「配慮とは相手の立場を考えること」というBさんの意見が、いちばんしっくりくるように今は思っています。

配慮は相手がいて初めて生じるものですが、考えている時点ではまだ何もしていないし、また行動しても相手がどう思うのかわからないけど、それが配慮だろうと思います。そして配慮は自己満足に違いないでしょう。


配慮を行動に移しても配慮=自己満足の行動であることには変わりませんが、「相手の立場を考えること」自体に利他的な要素があります。

Bさんのおっしゃるように、配慮は人の本能的な思考であり行動と思います。本能的である以上利己には違いないものの、「相手を思って行動する利己」であり、結果として利他になっているのではないでしょうか。

「幸せな王子」という寓話があります。人のために自分の目やら手やらを提供していったら最後には本人には何もなくなったという話です。一見すると王子は100%の利他ですが、果たしてそうでしょうか。「自分を犠牲にして相手に尽くすなんて、自分はなんていい人なんだろう」とすると、それは100%の利己のようにも見えます。

利他を別の見方をすれば利己でもある。ややもすると利己も利他もどちらも暴走する可能性があるように思います。つまり60%利他で40%利己というようなバランスではなく、100%利他でありながら同時に100%利己でもあることもあるのではないでしょうか。

「この行動は相手のためか、自分のためか」という問いは、自分にとって都合のよい理由はどれだろうと考えているだけで、あまり意味のない考察なのかもしれません。


一方、自分への「配慮」も確かにありますが、自分を客観的に捉え「相手」(=客観的な自分)の立場を考えている、とできるので、さほど矛盾してはいないと思います。

「自分への配慮」は、表現を変えると「勢いに任せてやりすぎないこと」でしょう。やりすぎになってしまわないよう、あらかじめ「ここまでが上限」というトリガー(目安)を用意(心積もり)しておいて、トリガーに触れたらブレーキを踏むようにしておくことか、と思います。


あくまで自己満足

もし私が相手に「XXしてほしいな」と思っていたとする。相手がそれに気づいてしてくれたとすると、嬉しいし感謝するでしょう。けれど、気づいてくれないと不満になるのではないでしょうか。それに、してくれたとしても「相手は配慮してくれた」と思うでしょうか。「私の心情に気付いてくれた」とは思うかもしれませんが、配慮とは少し違う気がします。

一方、私が自分でしよう/しなきゃと思っていること、あるいは思ってもいないけどしてくれると嬉しいことを、相手がそれに気づいてしてくれたとする。全く希望も期待もしていなかったことなので「相手は配慮してくれた」と思うように思います(もちろんそれが迷惑かもしれませんが)。


配慮は見返りを求めてするものではないし、求めるべきでないと思います。

配慮はあくまで自己満足です。それを認識しておいて、「感謝されたらもうけもの」くらいに思うべきではないでしょうか。

だから配慮は、相手のことを考え行動し心の中で「よいことをしてあげた」という満足に留めておくべきで、感謝の言葉を心待ちにするのではなく、ましてや「してやったのにその態度はなんだ」などと怒るのは筋違いのように思います。


また、相手に「○○してほしい」と頼まれたけどためらう場合も、中にはあるかもしれません。そのときは(当日も発言しましたが)改めて相手の立場を考えつつも、「でも私もけっこう疲れているんです」「△△だけでもよいですか」などと対話していくことが、気持ちのよい「配慮」になるんじゃないかと思います。

「配慮の程度を対話によって決定する」ということでいえば、最近法改正もされた「合理的配慮」と同じように考えていけばよいのではないでしょうか。


話の中で、相手の意思を確認できない場合の配慮についても提起されていました。でも意思を確認できない人の介助は、多くが「手伝い」であって「配慮」ではないのでは、とも思います。

とすると、「手伝い」と「配慮」って何が違うんだろう、という疑問が湧いてきます。もしまた機会があれば、次は「手伝い」と「配慮」について考えていけるといいですね。

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