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短歌「読んで」みた 2021/06/25 No.6

通常は「浜」という字を使うなり然れども戸籍の本字は「濱」だ
 浜田康敬 『「濱」だ』(角川文化振興財団  2020年)

著者第6歌集より。漢字の問題は根深い。以前2人のワタナベさんがそれぞれの「ナベ」について表記を改めてほしいと丁寧に、決然と申し入れているところに居合わせたことがある。聞けばそれぞれ違う本字があった。第二次世界大戦後の改革で多くの字が簡略化されたが、そういう立場になったそれぞれの字には元の姿がある。

読めれば何でもいいってものじゃなく、字の違いはルーツに直結する。この短歌の作者もそのような経緯のある字の持ち主。『通常は「浜」という字を使うなり』という言い方に含みがある。そんなことを声高には言わないのが作者の『通常』なのだ。色々と状況をわかっているのだ。実際著者名は「浜」を使用しているのだ。

それでも本当の表記については譲れない。『戸籍の本字は「濱」だ』なのである。「本字」はこの短歌を読む上で意外と大切なワードである。よく「旧字」とも言われるがそれとは一線を画する意味で、「本字」と使われていると見た。「旧」と言えば現在使われていない物をさすが、「濱」は廃止されたわけではなく今も使われているものであるという主張なのだ。

また、下の句の強さも目を引く。下の句は定型ならば7・7で7音と7音の14音になるところ、16音。『然れども』5音と『戸籍の本字は「濱」だ』11音と取るか、『然れども戸籍の』9音と『本字は「濱」だ』7音と取るか、一連として16音と取るか、どれと取ったとしても短歌のリズムからは外れ、主張の具現化として強くこちらにも伝わってくる。

 *  *

その中の言葉が歌集のタイトルで、帯にまで使われている一首をここで読んでみる必要はあるのだろうかと思いつつ選んだ。どうしてもこの一首に惹かれるのは私もかつて、本字ユーザーだったからである。以前の姓の中の一文字に「澤」があった。私も、何度もこの記事の冒頭のワタナベさんたちのように申し入れ、時には抗議したものである。そうではない人にとっては大したことのない差に思われがちだが使用している側にとっては由々しき問題である。そもそもその姓があってつけられた名であったりもするし、新字の画数の少なさではバランスが崩れる。先祖が思いをもって使用し始めた字であったりもする。数十年ほど前まで、悪い意味でおおらかで人の名でも勝手に、こちらが本字で表記しても変えられていたものである。ゴム判までそうされて「読めればいいじゃない、この学校に一人なんだから」と言われた時に思ったことなどを思い返すと、やはりこの作者も本字・新字について鬱屈とまでは行かなくても、思うところの蓄積があったのだろうと想像する。

私は現在の姓を使うようになり、本字問題からは離れたと思っていた先日、「亜々子」の「亜」が勝手に「亞」になっていた事があって、驚いた。流石にこれは無いだろうと思ったが、変えてくれた方は思うところあってしてくれたかもしれないと思うと、妙にありがたい気持ちになってしまって言い出せないまま、そのままである。

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