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短歌「読んで」みた 2022/03/12 No.24

短歌の鑑賞とミニエッセイ24回目。年齢を経てその立場になってわかることと、自然を見つめる確かな観察眼の歌を選びました。

家族といふ命いつまで水無月の田を鷺は飛ぶ首をすくめて
 黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』2021年 書肆侃侃房

  命のあるものには、当然として命はある。そして、それそのものに命がないものにも命は宿る。その一つが家族だろう。

 生まれたらやがて死ぬのが命である。いろんな家族はあるだろうがその集合体としての始まりと終わりの時。別々の家族に属していた人間が家族として暮らし始めて、家族はスタートし、そこにさらに人が加わって形成されていく。愛着や愛情の有無に関わらず、一定以上の結び付きが生まれるのが家族である。

そんな共同体とも言える存在にも、命であるからいつかは終わりが来る。間違いなくそれは来るものの、明確ではない。その終わりを考える「家族といふ命いつまで」という問いはとても憂いに満ちて感じられる。そこの終わりを考えるのは子供ではなく、親側だ。爆発的に成長する子供はそんなことなど考えない。親はかつて自分が暮らした家族の記憶も持っている。そこでの自分のこれまでと、今現在属している家族を考えるとおのずと生まれてくる思いがあるのではないだろうか。やがて子は独り立ちする時が来る。

 水無月の田とは水の張られた状態なのだろうか。田植えは地域によって時期が違う。3月には植え始める地域もあれば、九州のように6月に入ってから植えられるところもある。木々や草の葉も緑が濃くなり、みずみずしい自然の中を飛ぶ鷺。

 「首をすくめて」という鷺の描写は秀逸。鷺の一瞬の姿そのものだ。流線的な体と白かったりグレーが入っていたりする体と、水辺でたたずむ姿は美しいというのに、鷺は昔の人の感覚では、美しくも下品な部分がある鳥とされてきた。鶴や雁は首を真っ直ぐにして飛ぶが、鷺は飛ぶ時に首がS字になる。それが下品であるとのことだが、それこそが鷺の特徴である。「首をすくめて」は、見てなければ言えないことと感じた。

 夏へと向かう美しい季節の田の傍にもの思いしつついて、鷺を見ている主体。そして鷺は飛び去ったのだろうか。家族の時はあっという間に過ぎていくことが思われた。

 *  *

 私には子が二人いる。子と暮らすというのはなかなかに私のキャパ以上のことで、全力を注ぎ込むしか無く、そうやって育ててきて、気がつけばあっという間に過ぎている、というのがこれまでのの感想だ。その時はとても大変で死にそうだったのに、後で振り返ると一瞬のことだった。しかも、あれもまた良かったなどとまで思ってしまう。

 家族とは季節だ。「子がいる」というパターンの家族は生まれてから学童・中高生の時期までが夏。ここまでが一番、家族が家族として密に暮らしている時期だ。今我が家は晩夏まで来て、この歌がとても沁みた。なぜそんなに、と考えて、親だけが感じるこの感覚であることに行き着いた。子は多分、今後の家族が、とかは考えていない。自分のことを一心に考えながら無邪気に成長する子らを見つつ、その年頃だった自分と、これからの展開について思いを馳せている。

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