短歌「読んで」みた 2021/10/10 No.18
人が逃れられない、「暮らし」。
人の数だけある暮らしを自分はどう営んでいくのか。正しい答えなど無いとわかっていても生まれる戸惑いや葛藤は、暮らしを営む誰もが抱くものなのかもしれません。
第18回は鯨井可菜子さんの一首を読み、鑑賞してゆきます。
※前半は短歌鑑賞、* * 以降は短歌からインスピレーションを得たミニエッセイとなっています。
暮らすことに答えなどなく真夜中のシンクの底に匙は沈みつ
鯨井可菜子 『タンジブル』(2013年 書肆侃侃房)
キッチンの光景である。真夜中シンクの底にあるスプーン。そしてそれを見つつ考えている。
暮らし方はたいてい、庇護されていた環境から出て生活していくことになって身についていくものではないだろうか。これが結構大切だということは多くの人が気づいてるし、知ってもいる。家庭科という授業もそのためのものであるし、家庭で子供が教えられていくことも、この領域のものが少なくない。
いつか成長し、どこかのタイミングで家を出る時に暮らしに直面する。暮らしというのはシビアで、独立したばかりの暮らしビギナーも例外ではなく、自分の暮らしを支えていかねばならない。その際、家庭や学校で教えられたことは参考にしかならない。それぞれが試行錯誤しつつ自分の暮らしを作っていくことになる。
この歌の中の人物は自分が自分の生活を動かしていくことに、昨日今日対面したわけではないように見える。自分なりにルールを作りやってきたのではないか。それはそんなに破綻しているわけでもなく、うまくやれてきたのではないだろうか。
シンクの底にあるスプーン。そこにあるということは、収納とか使用途中ではなく、洗うため。水をためてそこに洗い物を一旦漬ける人もいるし、まずシンク内に収めて、端から洗っていく人もいるだろう。そこはこの歌からはわからなくても、この状況はどちらにしても完了前で、まだ洗われていないスプーンがシンクの底にある。時間は真夜中。後でやろう、と悠長に思うには遅い時間。やらなければと思いつつも、やっていない。「暮らすことに答えなど無く」とは言うが、そういうことを思っている時点で、もっとうまいやり方、最適解を探しているようにも感じられる。
そんな中、考える。いっそ正しい答えがあればいいのに。と。でも暮らしていれば正答など無い、人それぞれであることも知っている。実直に暮らしと向き合っている、生活者であるからこそ感じる心情の揺れがみずみずしく表現されている。
* *
上にも書いたが、暮らすことの正しい答え、どこかにないものか。完全無欠の生活マニュアルが欲しい。本当に生活することは難しい。もう数十年も実家という庇護の元を離れて生活していても、試行錯誤は終わらない。何も考えずにやれば解消する何かがないものか。生活を回すために考え工程を組み立てるだけで、けっこう脳のリソースを使ってしまうのだ。だから疲れ切っていると出来ないし、やりたい・やるべきことがある時に家事も回さなくてはいけない状況だと困ってしまう。
誰かがやってくれたらなんとかなる、と思うでしょう?これは完全な間違いでその自分以外の誰かにやってもらうために自分のところの今の状況・やり方に合った工程を組み立て、伝えなければ最悪二度手間が生まれてしまうから、しっかり指示を伝えなければいけない。ああ、そんな事するぐらいなら自分でやったほうが早いと思ってしまう。そして話は振り出しに戻る。体を使うことの疲れよりも考えるほうが大変と気づいてからが本番なのだ。結局答えなど無く、どこに行っても暮らすことからは逃れられない。生きている限りは多少はあってもなにかしら、考えていかねばならない。
経験値と工夫しかない世界ではあるが、救いは人の数だけ暮らしがあって同じものなど一つもないことだろう。私は私の暮らし。そう考えれば少し落ち着いても来るが、私だけの特別とか、オンリーワンとか思い始めるとまた新たな煩悩が山霧のように湧いてくる。本当に悩ましいことである。