雲の味【旅先ショート⑥】
今回の舞台は富士山
「恵、雲の味ってどんなだろう?」
隣に座る雄太が口をパクパクしながらそう言った。数時間前まで私たちを見下ろしていた雲が私たちを飲み込み、一目散に山頂へ駆け上がっていく。3000mを越えた8合目付近では、今まで見たことがない神秘的な光景が広がっていた。
「味なんて思うけどなぁー」
「そうかな、よく綿あめの味って言うでしょ?」
雄太は帽子まで脱ぎだした。そんなに雲が好きなのかな。今日に向けて気合を入れていたのか、ビシッと決まった髪が露になる。少し前まで高校球児みたいな髪の毛をしていたのに、刈り上げられて断層みたいになった髪は、富士山の岩場と雲みたいに見えた。
「それは例えの話でしょ? そんなの本当なわけないじゃん」
「恵もやってみてよ」
「……うん」
雄太はそう言ってまた口をパクパクさせ始めた。私も一応口を動かしてみるけど、やっぱり何の味もしない。雄太がたまに見せる子どもっぽさには呆れてしまうけど、どこか可愛げがある。
「あ、雲が抜けちゃった」
私たちを包んでいた雲が私たちを通過していった。残念がった雄太は、岩場にもたれかかった。そして、苦しそうに眼を閉じてしわをよせる。痛いのかなと思ったけど、私は雄太がどういう時にその表情をするのか知っている。その顔は……
「あーお腹空いた。恵はお腹空いてない? 力でないわー」
うん、そうだよね。心配して損をした。
「早々に持ってきた軽食を全部食べちゃった雄太より、私の方がお腹空いてるに決まってるじゃん」
ちょっとからかってみようと思って、リュックからチョコを取り出した。これは、出発する前にお母さんに貰ったちょっと高級なチョコ。栄養補給用に持ってきていたけど、もったいなくてまだ手を付けていなかった。
「チョコあんの? 俺にもちょうだいよ」
甘い匂いを嗅ぎつけたのか、雄太がこちらを見た。
「えーどうしよっかな。買った分を早々に食べちゃったのは自分でしょ? もうすぐ山小屋なんだから我慢しなよ。これいいチョコレートだから」
包み紙をゆっくりと広げる。現れた大きなチョコを、ゆっくりと口に運んだ。少しだけ頬を膨らませて雄太を見た。チョコの味よりも、雄太の悔しそうな表情に意識が向いてしまう。もったいない。
「雲が綿あめだったら糖分には困らないんだけど。あとは、恵がもっと優しくしてくれたら……」
雄太は羨望の眼差しを向けてくる。また口をパクパクさせ始めた。
(別にあげてもいいんだけどな……)
私の悪戯心が動揺してしまった。最後まで貫こうと思い、そっぽを向く。
やっぱり、どこを見ても雲は私たちの周りに浮かんでいた。そんな幻想的な景色に思わず見惚れてしまいそうになる。
チョコに意識を戻す。チョコはほんのりと冷たい。流石は富士山だ。そういえば肌寒くなってきたし、チョコは舌で転がしても中々溶けなかった。真夏なのにいつまでも口の中で味わうチョコには、凄く背徳感がある。
「雄太、凄くおいしいよこれ」
「もういいんだ。ほら、また綿あめが来たからさ」
確かに、再び雲が迫って来ていた。さっきの雲よりも、繊維が絡み合っているみたいで、本当に綿あめの味がするかもしれないと思った。雄太も同じことを思ったみたいで、下から登ってくる雲に向けてパクパクと口を動かしている。
雲は物凄い速さで、登山道を駆けあがった。あっという間に私たちを飲み込んでいく。さっきの雲とは違い、互いの顔の認識が難しくなるぐらいに濃い雲だった。隣に座っていた雄太の顔も、少しづつ綿あめに飲み込まれている。
「やっぱ何の味もしないなぁ……」
「まだそんなことやってるの? ほら」
私は2個目の包み紙を開いて、消えかけの雄太の口にチョコを放り込む。心なしか寂しくなってしまった自分がいた。
雄太は何も言わない。表情の全てを把握するのは難しかったから、感想は雲が抜けるのを待つしかなかった。
先程よりも規模がデカい団体客だったらしい。雲が私たちを包み込んでいた間、雄太は何も言わなかった。数分後、徐々に雲が抜けていくと、そこには、眩しすぎるほどの笑顔を振りまく雄太がいた。
「俺、間違ってたみたいだ」
「え?」
「雲はチョコの味がするんだな。綿あめの味は嘘だったんだ。マジ美味しかったわ」
私のチョコはまだ口の中にある。きっと雄太は早々に噛んで食べてしまったのだと思う。もっと味わってほしかったけど、その笑顔を見ると、何でも許してあげたくなってしまう。
「それは私のチョコレートの味よ。どうだった?」
「恵の? 俺は綿あめを食べていただけだけどなぁ……恵、さっき俺にくれなかったじゃんか」
雄太はいたずらっぽく訴えかけてきた。
ああ、チョコみたいに甘いのは私の行動だったみたい。これは一本取られてしまった。
「……じゃあ登ろう。そのチョコ味の綿あめを食べたならもう歩けるでしょ?」
「うん。ありがとう恵」
「もう……」
本八合目の山小屋まであと少し。チョコをしまって二人で歩きだした。
明日の朝は、最高のご来光が見れる気がした。
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