赤トンボ【旅先ショート⑤】
今回の舞台は愛知県東栄町。
「東栄町?」
ある夏の日のこと。史郎は国道151号線を北上していた。終わりの見えない山道を走っていると、何だか見覚えのある地名に目を奪われた。
「どうした史郎、東栄ってとこに何かあるのか?」
友人の大樹が、怪訝そうな顔で運転中の史郎を覗いていた。
「何かな、ここに来たことがある気がするんだ」
「こんな辺鄙な場所にか? 俺たちは腐っても都民だぜ。史郎はこんな山奥に来るような物好きじゃないだろう」
「まあ、そうなんだけど……」
確かに、都会のぬるま湯に浸かるの生活を送っている。もうふやけてしまって原型を留めない程に。でも、「東栄」という地名は、頭の片隅に残っていた。
「気になるなら、行ってみたら? ちょっと寄るぐらいならいいだろ」
大樹がまたこっちを見た。大樹は良い奴だから気を使っているのだと思う。こっちに意識を向けてくれているのに、史郎の意識は、真っ青な標識に目を奪われたまま。何だか創作でよく見る三角関係みたいで、史郎には面白く思えた。
「じゃあ、いいか?」
「おう」
赤信号で車を止めた。十字路を取り仕切る標識の横に、大きな看板があった。設置されてから長い年月が過ぎていたのか、看板の色が薄くなってしまっている。かろうじて「とうえい温泉」と書かれてることが分かった。その薄まった色と、積み重なった時間の面影が、史郎の記憶を鮮明に呼び起こす。
「思い出した。たぶん、東栄は死んだじいちゃんの地元だ」
「なら、そんな風に忘れてることないだろうよ」
「もう30年も前のことだし、しょうがないだろ!」
史郎は語尾を強めながら、ハンドルを右に切った。
「うぉ、驚かすなって」
「とりあえず『とうえい温泉』ってとこに行ってみる」
心だけが先に行ってしまいそうで、アクセルに置く足に妙に力が入った。ここの法定速度は30キロ。史郎にはそれを守れる自信がなく、温泉までを40キロ弱で走り抜けた。東栄の幹線道路の役割を成しているだろう、小さな道沿いにお目当ての温泉があった。でかでかと「とうえい温泉花まつりの湯」と掲げられていてる。
「たぶん、家族でここに来たことがあるんだ」
「へー。じゃあ、史郎の思い出に浸かりながら温泉もアリだな」
「俺の思い出でいいのかよ? 大樹は俺の思い出の中に入れないだろう」
「もうお前のモノとも言えないだろ。さっきまで忘れてたんだから」
「確かに、それはそうだ」
史郎は、駐車場の奥に車を止めた。
史郎たちが車を降りた瞬間、いっぱいの自然から出迎えを受けた。
夏の日差しに呼応して大きくなる蝉時雨。あんまり東京では聞いたことがないセミが鳴いている。ミンミンゼミでもアブラゼミでもないセミが、不思議な音色を奏でていた。
そんな風物詩を全て包み込む木々にも圧倒された。暑さも日差しもセミも、全てが深緑の手のひらの上で踊らされている。それは人も例外じゃない。こんな舞台を整えられたら、心が踊ってしまうのが人間と言う生き物だ。
「いい所だな……」
「そうか? 俺は暑くて死にそうだよ」
大樹は、サングラスをかけてから、両手を掲げて伸びをした。グラスの中で、目を強く閉じている。目の周りにまだ若い皺たちが集まっていた。
史郎も一度伸びをして、温泉の入口に向けて歩こうとしていた時だった。
目の前を二匹のトンボが通りすぎた。
「トンボだ」
「ああ、トンボだ。しかも赤い」
真っ赤な色に染まったトンボは、明らかにこの大自然から浮いていた。縦に二列になって鬼ごっこをしているらしい。二人の周りをグルグルと回って、遊んでいた。互いに追いつくようで追いつかない。特に、先頭を行く逃げ上手なトンボが、史郎には不思議に思えた。
「なあ大樹、トンボにも優劣があるのかな?」
「それはそうだろ。追いつかないとトンボは子孫を残せないだろ?」
「ああ、確かにそうだ。あ、向こうに行った」
二人の周りでする鬼ごっこに飽きたのか、二匹のトンボは温泉とは反対の方に飛んでいった。史郎はトンボの行方を追い、振り返った。
そこには、川辺に続く階段があった。強烈な既視感と、胸にこみ上げる不思議な感情が、史郎の目をくぎ付けにする。
二匹のトンボは、器用に階段に沿って飛んでいく。
史郎は無意識にトンボを追いかけた。
「おい、史郎。どこ行くんだよ」
史郎は鉄筋の階段を下った。二匹のトンボはまだ視界にとらえている。何だか懐かしくて夢中でトンボを追いかけた。階段に侵食する夏草が足を撫でるたびに記憶が蘇る。
「そうだ。俺、ここの川で遊んだ覚えがある」
目下の川は、太陽に照らされて宝石のように輝いていた。太陽の光は川底まで届いていて、岩肌が露出している。常に揺れ動くキャンバスには、魚が泳ぐ姿や、流木と枯れ葉の影が描かれている。そこにうっすらと空と木々の様子も伺えた。色んなものが混ざって一つになって、夏を浴びながら流れていく。
二匹のトンボが川に向かったことで、史郎の足は止まらざる負えなかった。
トンボは乱高下を繰り返して、水面を進む。
太陽に照らされてくっきりと影が現れていた。
影になることで、川の中にいる魚たちとの邂逅を果たす。普段は絶対に交わることは無いのに、夏だけはこんな風景が描かれる。必然と言うべきか、史郎はそこに混ざりたくなった。空は飛べないから、直接川に飛び込むしかない。
でも、史郎はそこに行く術を持っていなかった。
正確に言うと、どこかに忘れてきてしまった。
「お~い史郎、もういいだろ。温泉、行こうぜ」
大樹の声がした。振り返ると、大樹は階段の上から手を振っている。かけていたサングラスは、薄っすらと広がり始めたおでこの上に乗っかっていた。
「なあ、大樹。温泉、入るの辞める」
「なんでさ? せっかく来たんだから温泉入ろうぜ」
「今入ったら、溺れてしまいそうだよ」
「何を言ってんだ? じゃあ、早く行こうぜ。そこは史郎に任せるから」
「ああ、ありがとう」
最後に振り返って、目下の川を見た。さっきのトンボはどこかに消えている。水面には、誰のかも分からない影がまばらに散りばめられていた。
「史郎、早くしろよ。暑くて死にそうだよ」
「ああ、分かったから。先に車に行って冷房でも浴びてろよ」
目下の川から目を切る寸前、史郎の目に小さな人影が映った。
サブンと音を立てて、小さな人影がいつまでも水面に揺れていた。
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