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文字に隠れる僕を見つけたい。

「君の文章には具体性がないよ。言っていることがよく分からない」

会社の先輩は、僕にそう言った。

文章を書くことは比較的得意だと思っていたから、「何を言っているか分からない」と言われて少しだけショックを受けた。

僕の会社では、新人教育の一環で、毎月振り返りシートの提出を要求される。一か月間で何をして、何を学んだのかを書く必要があった。書き終わったら、先輩に提出する。そんな過程で思いがけず、自分の文章のレベルの低さを実感することとなった。

提出を跳ね返されて、改めて自分の文章を眺めてみた。僕の紡いだ文字からは自信が滲んでいた。「会社から帰ったら、ずっとnoteやブログを書いているんです!」と言っているようだった。

じゃあ文章として見てみたらどうだろう。

人に見せる文章なのに、自分だけが分かる言葉で表現されていた。

「こいつは何を言ってるんだ?」

客観的に見てみれば、先輩の言うことが正しいと理解できた。

具体的に例を挙げてみる ↓

「多くの仕事を通して、全ての業務が大事なのだと理解した」

今考えると信じられない文章を書いている。

先輩が知りたいのは、何故大事なのかを理解しているか、どんな仕事から何を学んだのかのはずだ。

僕がこの文章を読めば、言いたいことは理解できる。なぜなら、実際の記憶と経験があるから。その記憶と経験を伝えた文章が、記憶と経験を放棄するという矛盾を生み出していた。

僕は自分のデスクで失望した。自信に溢れた文字が恥ずかしく思えた。

何往復も赤線を引いた。

どうしてこんな抽象的な文章しか書けないのか? 
仕事そっちのけで原因を探った。

どうやら、文章上でも秘密主義の弊害が出てしまっているようだった。

元々秘密主義の僕には、
プライベートを書く時に抽象的な言葉に逃げる癖があった。ブログに自分の旅行記を書くときもそうだ。

例えば、「3月20日に高尾山に行きました」と書きたいとする。

大袈裟に言えば「ある日に某山に登りました」と書いてしまうのだ。

「もしこれを書いて個人を特定されたらどうしよう」

「友人とか親にブログを書いていることがばれるかもしれない」

ばれるわけないのに(笑)、というかばれてもいいやん。
被害妄想で、全てを抽象的な言葉に置き換えてしまうのだ。

この逃げ癖が出るのは、自分のプライベートを書くときだけだと思っていたが、それは違った。

プライベートじゃない仕事に関する文にも、逃げ癖が現れていた。

多分、多くの、それら、これら、前の、ああいった、あのような、ある先輩に、そういう風に、全体を通して、色んな、真面目な姿勢から、、、

逃げ言葉

「色んな」は、特に大好きな言葉だ。「色んな」は、僕の隠れ家的存在。文章に付け加えるだけで、僕に安心感をもたらす。「色んな」を使えば、読み手にふんわりと捉えてもらうことができるし、秘密主義を貫いたまま何かを表現できる。

自分では、十分に具体化したと思っていたのに。
無意識に具体化から逃げていたことに気づいた。僕の文章は、抽象化する言葉で溢れていた。


僕がこうして誰かに見える形で文章を書き始めたのは、自己表現ができるようになるため、直接のコミュニケーション以外での秘密主義を解消したかったからなのに。練習してるのに応用が利かない典型例。

逃げ癖を自覚してからは、仕事でもプライベートでも具体的に生きることを意識している。

逃げ言葉に隠れていた僕を探そうとしてくれた先輩にはとても感謝している。ありがとうございます。






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