一つも取りこぼさないようにと自分のものに出来るようにと彼女の発した言葉を残してみたけれど大切なことはすでに頭の中に残っていてメモを見返すことはほとんどない。

生きていてよかったという瞬間を、感覚を、思い出すことでまた生きていけるのだと思う。

その時をより鮮明に思い出すために風景を目に焼き付ける。写真におさめる手段もあるけれどなるべくはそのままを脳裏に残したい。
他のことを考えることで気持ちを放出しないようにするために音楽を聴く。耳が塞がれると感情が漏れないように思う。

一秒でも長く心臓の鼓動を感じていたい。だけど少しでも早く落ち着いて冷静になりたい気もする。ふと我に返ってからのほうが事の大きさに気付ける。
そんな葛藤すら、この感覚の一環なのだろう。なんて贅沢なんだ。

このドキドキは一生に何度もない。それくらいのことなのに、何故この感覚はいつか忘れてしまうのだろう。また次にこの感覚に出会えた時には私は何に絶望してる時のかな。と、もう失った時のことを考えてしまうのが私だ。
例えば連休が始まった時には連休最終日の絶望感に怯えながらずっとそのことを考えて連休を過ごす。
楽しいと思う瞬間の次には明日の仕事のことをもう考えて憂鬱になる。
そんな考え方しかできないことに気付き自分を恨んだこともあったが、それすら慣れた。でも今は、そんな恐怖とともに多幸感を抱けている、私の人生の中でも幾度とない瞬間だ。その時だ。


私は生きる意味や理由を常に求めている。そんな目印がないと先に進めない。それでも目印があれば生きていけるようになったのだから大したものだ。

自分で自分の生きる意味を探していくために、私は自分の好きなことを追い、そして突き詰めてきた。だから好きなことには行動を惜しまない。後悔をしたくない。
その結果、多くの生きる意味を自分で掴み取ってきた。死にたい感覚もなくなった。誰かに頼ることでしか生きれない自分もなくなった。

「自分のことは自分でする」

毎日子どもに口酸っぱく言ってることを私もしてるまでだ。
生活のことも趣味のことも、自分のことは自分で責任を持って生きていくのが、人間だ。
嫌なことや辛いこともあるけれど、その先には、ほんの少しの好きなことがあって、またその先には、ほんの少しの生きていく理由が見出せる。そうしてまた少し生きていく時間を伸ばしている。

この感覚を忘れたくないから京王線の中で急いで記す。自分の思いを文字にすることはずっと避けてきたけれど、今はそれも感覚を残せる手段になっていってほしいと願うから、拙い言葉を記す。
目に焼き付けること、音楽を聴くこと、そして文字にすること。一つでも多く残せたら、もっと感覚を鮮明に思い出せるような気がしている。

女であること。
普通ではないこと。
その劣等感や焦燥感を抱いていながらも表現する才能のない私にとって、自己表現をして評価されてる女の子は自分を反映しているようである。
彼女たちは私のような人の気持ちを、背負って戦ってくれていると思っている。
身代わりになって傷ついてくれているのだ。
そのことの感謝を直接伝えられ、むしろその存在があるから戦えると感謝された。
今日は私の生きる意味がまた一つ出来た特別な日で、あの瞬間をあの時の感覚をここに記しまた思い出そう。そしてまた生きれると自分に言い聞かそう。

もう夏は終わりかけていて昼は蝉が、夜は鈴虫が鳴いている。それが彼らの生き方なのだ。
私はもう誰に縋っては、泣かない。それが私の生き方なのだ。


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