両手が空くからって身動きがとれるからって理由をつけてリュックには荷物を詰め混みすぎてしまい結局重くなりがち。

昨日の夜のこと。
大好きな大森靖子ちゃんが
大好きな銀杏BOYZの峯田さんとテレビに出ていた。
NHKでいつものような
(正確にはいつものように見せかけてインパクト残すための計算されたテレビ用にも思うが)
2人がそこにいて
私はテレビの前でずっと号泣していた。

靖子ちゃんへの愛を語るのはまた別として
彼女の活動に、彼女の存在に、
かつて何よりの自己表現を投じていた自分にとっては
やっぱり靖子ちゃんはすごいな
そう思い嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。

靖子ちゃんの歌を初めて聴いた時
私のことを歌っている
人とは違う私のことをわかってくれている
と自分と靖子ちゃんの世界観を重ねた。
そして
それでもいいんだよ
と歌を通して言ってもらえている気がした。生きていける気がした。

実際、2014年頃、靖子ちゃんの曲を聴いて靖子ちゃんのライブに通い詰めていた時期は
これはまた拗れに拗らせたメンヘラサブカルクソニート時代だったので
尚更何かに支えられていないと生きていけなかったのだが。

きっと私にとっての靖子ちゃんのような存在が
靖子ちゃんにとっての峯田さんのなのだったのだと思う。
熱量や背景は全く違えど
存在という意味でそうだと仮定すると
結果として自分の力でそんな存在の人と
こうして自己表現を続けきて評価されて
一緒に音楽作ってテレビ出て一緒に息してるって…
靖子ちゃんはやっぱりすごいの一言に尽きる。
私にはすごい以上の言葉が見つからない。
そう思った昨日。

2014年当時の話、
私は靖子ちゃんに自己表現を重ね
そして自分の背負っているものを靖子ちゃんの世界観に重ね
あわよくば靖子ちゃんにその荷物を背負わせようとしていた。

これは私の歌!
と靖子ちゃんの歌を自分のものにしているだけの
それだけの距離感なのに
こんなにわかってくれてるなら
こんな私が生きてていいと言ってくれるなら
痛みを分け合おう?分ち合おう?
とまぁ、そんなかんじだった。

Twitterのリプやファンレターに
自分の思いをつらつら連ね
ねぇ、わかってよ!
と言っていた。
(きっと今現在も靖子ちゃんのファンには私みたいな人がたくさんいると思う。靖子ちゃんはそのことをよくわかっていて、ちゃんと背負ってくれるアーティストなんだと思っている。そういう特別な存在のアーティストなんだと錯覚してしまうほどいつもファンのそばに寄り添ってくれる神様みたいなところがあるアーティストなんだと。)

自分には重すぎるものを
自分を肯定してくれる大好きな人に
背負ってもらいたくて仕方なかった。
なんてずるい話なんだ。
自分の荷物なんて自分で背負わないと
重いことにも軽くなれてることにも気付けないよなと
ようやく今、そう思えている。

さて、
思ってはみたものの
背負ってみたものの
背負った後の生き方がわからなくて
押し潰されそうになっている。
31年間の自分は、あまりにも重い。
今まで背負ってこなかった分
そのことの大きさに気付かなかった分
ただただ重い。

生きていけばいくほど
違う荷物が増え
頑張っていらない荷物を選んで捨ててみるけど
結局はプラスマイナス0の重さで
変わらず重くて。
そんなことを返して進んでいくのだろうか。

今までの境遇
仲の悪かった両親から得た愛情
拗れた考え方
自己肯定感の低さ
愛を知らないが故の愛着障害

そんなものが大破を占めていそうな
私の背負っているもの

靖子ちゃんは背負ってくれないけど
きっと彼女の世界で生きていた
あの頃のようにはもうならないし
他人にお願いしようとは思わないから
少しは成長しているのかな。

どこへ行くにも
誰と会うにも
背中重いな
中身絶対バレないようにしなきゃ
とか思いながら生きるのかな。

みんなは荷物どうしてるの?
そもそも背負ってないの?
それでも生きていけるの?
それってすごくない?
生きるって難しくない?


梅雨入りした雨の6月の日曜日。
紫陽花は至る所に
いろんな色や形をして咲いている。
勝手に咲いているように見えるけど
ちゃんと自然の恵みを得て
ちゃんとこの時期に咲く。
生きるってすごいんだからね。
って言ってるように思えた。
梅雨にしか出会えないこの奇跡に気づいてた?

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