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2024/02/04 ぼくの間違い、あるいは動脈

冷たいタイルに触れている。ぼくが間違っている。ぼくが間違っている。ぼくが間違っている。

想うことが苦しい。何をも、誰をも、想いたくない。幸福も不幸も愛も呪いも通り過ぎればただの事象になる。感情に付随される痛みは感覚だ。慣れたらどうってことはなくなる。「時が解決してくれるよ!」という論は、時間と共に痛みという感覚に慣れていくから感じとることができなくなって、いずれ恒常化されるよ!ということだ。ずっと長く永く掛かることもあるけれど。
傷がつき、つけまくり、血を流しすぎて弱りきったぼくのこころ。

ぼくもまだずっと痛みを感じている。過去に心のまだ柔らかいところへ抉るように付けられた(あるいは自らの引き起こした)傷がじくじくと痛みを発するとき、それらが真昼の水面の生じる無数の煌めきのように網膜の裏で乱反射するとき、ぼくは光になれる。人差し指の先、一瞬だけ、ぴかっと光る。光って消える。それを繰り返すのがぼくの一生なんだろうな、と思う。でもその光って太陽より月より電灯より花火よりアルコールランプの火より星より彗星より、ずうっと綺麗。だからまあいいかな。光ならいつか見つけてもらえるかもしれないし。誰に?うーん、わかんないけど誰か、かみさまとかにかな。

こころの柔らかいところに触れられることは気持ちがいい。柔らかければ柔らかい分、血管が近い分、直に触れられる分、触れているときの指先の温もりを感じられる。でもそれは致命傷になりかねない、血が噴き出して死ぬような大きな傷を、消えない傷を付けられる可能性が上がるということだ。それを理解した上でぼくはいとも容易く他者に柔らかいところに触れてくれ、と懇願してしまう。哀れんで、蔑んで、慈愛を与えて、憐憫の情を向けて、かわいいねと、やさしいねと、えらいねと、撫でてくれ、と願ってしまう。これがぼくの間違いで愚かさです。罰してください。どうか。

また傷をつくることが怖い。また大きな痛みがぼくを喰らえばぼくは波間の砂の城のように簡単に崩れて消えてしまうと思います。祈ります。おやすみなさい。


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