見出し画像

アートのことはよくわからないけど先の世界を考えてみる

まえおき

いまの時代のもう少しだけ先には、人間が思考,作業する割合をかなり減らしても、極論ゼロにしても、はたから見てアートな作品が成立するようにはなりそうで、その行く先や人間の意義を考えてみたいと思って書き留めておきます。

ちなみになんの有識者でもないので、おかしなことを書いているかもしれないしあたりまえのことを書いているかもしれない。最終結論でもなく、思考の整理くらいな気持ちです。

それと、何がアートである、アート鑑賞はどうあるべき、どこまでをAIとする、みたいな話はここではずっと一意に定義しないです。

前提、世界の捉え方

我々が何かを体験するとき、誰もが同じように知覚して同じように感じるわけはもちろんなく、その対象が持つ無限の側面から意識的もしくは無意識的に選んだいくつかの側面だけを認識していて、そのごくごく限られた文脈のなかに置かれた対象を、自分の内にある独自の価値基準を持ってきて評価しています。

なので、体験というもの自体がどこまでいっても固有なのだと捉えられます。

アートも同様で、すべて受け手次第(受け手がアートと捉えればそれはアートなのだ)とすると、そもそも世の中のすべてはアートであって同時にアートでなく、わたしやあなたが観測して初めてそれぞれ自身の内の世界においてアートだったりそうじゃなかったりがうまれるのだと思います。

蛇足を書くと、作者がアートだと言えば作者の意図する文脈においてちゃんとアートとして存在するし、評論家がアートじゃないと言えばそれは評論家が描く文脈においてはアートではないものとして存在します。

受け手視点で考える「アートを体験する」ということ

このとき、その価値を享受するにあたって、作品を人間が作っているかどうかは関係ないことが多いのだろうと思っています。人によっていろいろな作品への向き合い方がありそうなのでいくつか場合分けして考えてみる。

a.作品を作者と完全に切り離して捉える場合

この場合、そもそも受け手にとって作者がなにであろうとそれはとくに重要な関心ごとではなく、そこで体験して感じた“そのこと“こそが重要なのですから、作ったのが人間なのかAIなのかはどちらでもよいですし、自然生成されたものでもいいかもしれません。

b.作品をとおして作者の思想や価値観に触れることに価値があると捉える場合

作品を作者と対話するメディアのような存在と捉え、どういう思いで何を考えて作ったのだろう、何をここに込めたのだろう、と考えを巡らせる向き合い方です。キャプションやガイドやその他背景情報を踏まえてその理解度を高めようとすることも含まれます。

この場合、作者が人間であることは一見重要そうに思うのですが、多くは“独自に価値観や思想を定義されたAI”に置き換えても成り立ちます。

たとえば、近現代の絵画史と現代社会のさまざまな側面をランダムにインプットし、人間的な思考回路でいくつかの思想を持たせ、それにもとづいて何をどんな手法で表現しようか考えた末に最終的に絵画として出力するような場合。今日時点での実現精度はさておいたとして、それを見た人は、そのまるで人間が作ったような絵画の背後にあるであろう思想を想像し、考えさせられたり心を動かされたりすることができるはずです。

これは先の前提のとおり体験はすべて受け手次第であり、そもそもすべての間接的な体験はその作者を本質的に区別することができないからです。

c.作者が人間であることに価値があると捉える場合

これはbのうち、作者が人間であるからこそ生まれる価値に重きをおくケースを指します。雑に言えば「人間が考えているからよい」「実在する存在が作っているからよい」「その人本人が作っているからよい」というものです。
作者がAIであることが確定するとその価値はなくなりますし、人間かAIか不確定な状況も価値を薄めます。

この場合においてのみ、受け手にとって「作者が人間である意味」がたしかなものとしてあります。

また、それを成立させるために「作者がちゃんと実在する人間である(作品のどれだけが人間による創造である)」といった証明がなされることにも価値が生まれてきて、それを保証する立場というのも新たに出てくる気もします。それは第三者のシステムかもしれないし、作り手本人が担うこともありそうです。

作り手の視点で読み替えてみる

受け手の視点でアートを体験することを考えてみたこれらを、作り手視点でも見てみます。

ケースa,bにおいて、AIは人間の作り手にとって横並びで見られるライバル的存在であり、有限な受け手の体験時間をどちらがどれだけ取れるだろうという戦いを強いられることになりそうです。しかも人間の場合は作るためのコストがどうしても高いので、時間が経つにつれてどんどん数的不利な状況に追いやられていく可能性も考えられます。

ただ、最後のケースcにおいては、その価値は少なくとも、その文脈においてはおそらく不変であり続けそうです。このことは作り手にとって希望とも読める気がします。

作り手は、というか人間は、自分の人間性とか実在性みたいなもの(それは表面的なことではなくてさらに深く個人的なところにあるもの)にもっと向き合って活動していくことで、より自分が自分である意味を自分で確かめながら、他人にも確かめてもらいながら、存在をしていけるのかもしれないです。

とかなんとか書いているこの文章だって、人間が書かなくていいことを書いているなと思いながら書いているわけで、はてさてどう着地したらいいかわからなくなりました。

少なくとも、作品をとおしたりとおさなかったりして私という存在に意味や価値を見つけてくれている人には、ほんとうに日々おおきな感謝をしながら、引き続き自分に向き合って人生でもしてゆきます。

読んでくれてとてもありがとうございました、またね

あそ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?