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拝啓、皆様とあの日のああああ殿

私のnoteへようこそ!!
Twitterを本気で運用して約1ヵ月が経ち、2000名を超えるフォローをいただきました。(2020.5.10時点)
本当にありがとうございます。

ここに至るまで私の『ああああ』という名前の由来を含め、自己紹介もできておりませんでしたので
私がこの世に生を受けてから30年という時間を、皆様とあの日の自分へ向けて書かせていただきました。


書いている途中何度も涙を拭い、目を背けたくもなりましたが、どうにか執筆を終えることが出来ました。
エッセイのような内容になりましたが、どうかお時間の許す限りお付き合いいただけますと幸いでございます。

ああああより




1.ああああの名前の由来

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本来、皆様は名前というものを考える際は必ず下記のいずれかのように考えることでしょう。

・自分の好きな何か
・かっこいい響き
・可愛いくて親しみやすい
・特に深い意味のない羅列



特に自分が好きな何かというのが真っ先に思い浮かぶはずです。
人は特に『自分の好きなものは相手も好きだろう』と思い込む心理が作用しやすい為です。(心理学で投影という)
名前は、その人がどんな人間かを示し、"個"としての存在を確立します。
そこで私は発想を逆手に取る名前を考えて『ああああ』としました。
この名前に込めた意味は下記の通りです。


・どこにでもいる大衆の一人と認識してもらう。
・ゲームをやったことがある人なら共感する、”あるある”をくすぐる。
・なんで数ある名前からコレにしたの?という興味を持たせる。
・短い文字数で最も強烈なインパクトを与え、覚えてもらう。
・単純な笑いを誘う。
・どんな発言をしても『でも名前が・・・』と+αでオチがつく。
・一番最初に接した際、相手のガードを自分で解かせる。


現実での第一印象は顔で決まりますが、ネット上での出会いは名前が第一印象を決めるのです。
『誰こいつ?』と無関心に思わせる前に『なんだこいつは!?』と興味を向かせる名前を考えたのが、私にとっての"ああああ"の始まりでした。


今では、この名前にして本当に良かったと思えるほどの繋がりを皆様からいただくことができました。
お慕いくださる皆様と、ああああという名前にとても感謝しています。

本当にありがとうございます!!



2.拝啓、皆様とあの日の自分へ

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このnoteをお読みくださっている皆様は、ここまで様々な人生のイベントがあったことでしょう。
そして色々な年齢層の方がいらっしゃる事と思います。
あなたのこれまでの人生の全てのイベントが、今日のあなたを作りました。


他者が普遍的にその出来事ひとつひとつに優劣をつけようとも、それがあなた自身なのです。
私も同じで、ただし『日本でここまで苦労している人間も少ないだろう』と悲劇のヒロインを気取り、つい最近まで自分自身を構成しているもの達と向き合うことを拒絶していました。


いわゆる、寂しくて惨めでかまって欲しくて仕方がなかったのです。
世界は広く、上には上がいますが下にも下がいます。
自分がまだ恵まれている人間だと認識ができるまでに、こんなに時間がかかってしまいました。


2-1生誕

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私は今でこそ華奢で身長も170㎝に満たない人間ですが、生まれたときはそれはそれは巨大児だったそうです。成長も早く、生後10か月で立ち上がり1歳を迎えるまでに言葉を発していたそうです。小さい頃は近所の人にも必ず挨拶をし、表札の読み方を覚えるような子供だったと聞きました。(今ではその影もなく、読めない漢字だらけで挨拶は"おはああああ"などと言う始末)ですが呼吸器系が弱く、いつも喘息の発作に悩まされていました。これは後に20歳を過ぎるまで尾を引くことになります。



2-2幼少期


私は小さいころから祖母が好きで、いつも祖母にくっついていた記憶しかありません。
というのも実父は私が生まれてすぐに離婚しており、母は祖母と私と弟を養う為に昼夜問わず働きに出ていた為です。
母の事を母と認識しておらず、いつも怒ってばかりの怖いお姉ちゃんだと思っておりました。


なぜ父がいないのかということも認識できるわけもなく、保育園に登園するようになってから、これらの事柄が引き金となって、長きにわたる『いじめ』との共存が始まります。
母の仕事終わりが中途半端な時間ということもあり、保育園に迎えに来る時には殆ど他の子はいませんでした。
幼心ながら、保育園に登園してゲートが閉まる瞬間がとても悲しくて辛かったことや、夜にかけてお迎えのメロディーが流れる度に、母ではないかと我先にゲートに走ってしがみついて泣いていたことを覚えています。


他の子となかなか馴染むことが出来ず、先生もとても怖い存在でした。
お昼寝の時に見上げた天井の模様が怖くて眠れず先生によく怒られました。
おもちゃの取り合いにいつも負けて、すぐ泣いてばかりいたと思います。


父がいないことに違和感をもっていなかった私は保育園の子たちに父がいないことを罵られ、そしてそれを引きとめに入る先生から放たれる『お父さんいないのは仕方がない』と言われることが悲しくて仕方なかった。
その存在が何なのかを知らないのに『自分にはないもの』として扱われることに対して疎外としか感じていませんでした。



2-3小学校入学~


小学校に入学した私は、この頃から頻繁に嘘をつくようになります。
それは自己防衛であったり、そうありたいという自分の見栄や願望からに他なりません。
もちろんそれから発せられる『標的としての匂い』は、小学生を惹きつけるには充分過ぎました。


そして自分はこの頃から『普通』という概念が最も遠い存在となっていました。
みんなが裾がストレートのジャージを着用している中で、自分だけ真っ赤な芋ジャージ
母の趣味で伸ばされたアルシンド(サッカー選手)のような襟足だけやたら長い坊主頭
給食の割烹着は皆が三角頭巾やバンダナを巻いている中で一人だけ給食帽子
当時、流行ったポケモンのゲームも自分は持っておらず当然の仲間外れ
それら全てを母にねだる事も出来ず、ねだったとして買い与えて貰うこともできず。


学校ではいつも泣かされ卑屈な思いをし、家では母は自分を理不尽に叱り仕事へ行く、という毎日でした。

この頃から私の写真は高校生になるまで1枚もありません。
ちなみに保育園の頃から週末で休みになる度に、母も祖母もパチンコへ出かけるため、自分も弟も部屋にそれぞれ閉じ込めカギをかけられ、置いていったご飯を食べつつ、便意を催せば小はゴミ箱にティッシュを敷いて済ますか、大はオムツに済ますという今では考えられないような状況下に置かれていました。


また部屋に閉じ込めない場合はパチンコ屋に連れていかれ(当時はそんなにうるさくなかった)店員によく遊んでもらっていました。


当然ですが、違和感など感じることもなく、部屋で無限に流され続けるドラえもんズのビデオとシャ乱Qのズルい女のビデオが今でも強く印象に残っています。それが『普通』だと思っていました。

小学校2年生の時に今の父と母が再婚しました。
当時の事もあまり覚えていませんが、いつも母が板挟みになって頑固で昭和な気質な父をなだめていました。
父もきっと実子ではない子を叱るということが難しかったのと
ある日突然それなりの年齢の子の父親になるのは想像以上に大変なことだったのでしょう。


いつの間にか父という存在ができ、名乗る性も変わりましたが、それがきっかけで逆にいじめに拍車がかかることになります。


この出来事をきっかけに、抗うことのできない大きなうねりに諦めを感じた私は『死にたい。』そう思うようになり、ある朝その感情が爆発します。
自らの命を家で絶とうとした時に、怖くて仕方がなかった存在の父が静止し私の味方をしてくれて、学校に怒鳴り込んで電話をしました。


しかしこれはやはり一過性のものに過ぎません。その後の一時は大人しくなっても時間が経てば元通り。
なんなら『親がしゃしゃり出てくる面倒な奴』というレッテルのもと、陰湿な扱いが始まりました。


私は三年生から必死に『お調子者』を演じるようになりました。自分を守るために。
いじめを受けても必死に笑いを取るようになりました。少しでも自分の居場所が欲しくて。


例えそれが嘘でも、人に笑ってもらえた時に自分の存在が認められたような気がして。


そして辛くなったら保健室に逃げて体温計に細工をして(当時は水銀計で掌で擦れば発熱してるように誤魔化せた)早退をするようになります。
泣く所を見せれば、全てが瓦解してしまうことを恐れました。これは結局卒業するまでずっと続くことになります。
高学年からは、しょっちゅう保護者への手紙を預かっていました。この理由が解るのはまだ先です。
このころから家庭のお金の動きが怪しくなり時々ライフラインが止まったりしました。



3-4中学進学~


中学1年生の前期だけは平穏に過ごすことができました。
理由は簡単。近所の小学校4校が一同に1つの中学校に通う為、互いに様子見をするからです。
そして自分と同じような標的が複数いる為、的が一つに絞られていないようでした。


ようやく平穏な時間が訪れたと思った矢先、夏休み前の期末テストでのカンニング疑惑がかかります。
自分の書いた記憶のないとても小さなメモ紙がテスト後に自分の机から出てきたのです。
弁明も空しく、筆跡等でも否定をしましたが結局テストは0点とされてしまいます。
ここからまた、地獄の学校生活がスタートするのでした。


自我も目覚める多感な年頃であるが故に、連中は群れることを覚えます。
そこにカーストが出来上がるのはみなさん想像も容易いでしょう。
夏休み明けから始まったのは徹底的な組織ぐるみの『無視』でした。


私のことを特に何とも思っていないような人でさえも、全員が無視するのです。それは同調圧力に他なりません。自分が標的になりたくないという保身でもあったでしょう。
今でこそ彼らの気持ちや、そうせざるを得なかった気持ちも理解できますが、当時の私は全てに辟易し恐怖し怯えていました。


秋、母が体調を崩します。兄弟がお腹にいましたが死産でした。
父は仕事、弟は小学生、祖母は難聴を患っており母の介護をするのは誰としていません。
私が日中の見舞いに行くためにたった1週間ですが学校を休みました。


その後、再び登校するようになると今度は自分に対して連中は徹底的に嘲笑し逆に担ぎあげるようになりました。
やりたくもない委員会に強制的に指名され、授業中に指名されただけでクスクス笑う。
果てには教師も、修学旅行や校外学習の班分けの際、一人余っている自分を見て、主犯格の人間のグループに向かってお節介なフォローをかまして『入れてあげてよー』という始末。


後にわかった事ですが、この教師が休んだ理由の全てを、クラスメイトに事細かに口を滑らせていました。
そこから中学を卒業するまでの間は本当に筆舌に尽くしがたいものでした。


登校拒否をすることも家庭から許されず、学校では居場所がない。

自分の生活の圏内すべてに居場所がなかったり、自己有用性が満たされないと人間は完全に思考が止まります。


家出をすれば良かったんじゃないか?学校から逃げればよかったじゃないか?と、そういう意見も出るでしょう。実際、第三者の意見というものは当事者の記憶や心情をはかることが出来ません。

死んでしまうかもしれない恐怖、家庭でも親の言うことが絶対の恐怖、学校での人格否定の恐怖
一種の洗脳のような状態に陥るのです。


最も心を抉られたのは卒業式でした。
クラスには自分以外にも標的にされていた女の子がいました。
卒業式の朝、私の机には彼女が書いていないはずの呼び出しの手紙が入っていました。
そして彼女の机には私が書いていないはずの呼び出しの手紙が入っていたのです。


内容は『卒業式が終わったら話があるので校門前で待っていてください』というもの。


涙も思い入れも一切ない卒業式が終わった後、校門の前でみんなが涙ぐましい別れの惜しみあいをしている横で
私と彼女は互いに『なんですか?』と顔を合わせることになります。
もちろんそこで発生するのは、連中の薄汚い感情が混じりあった爆笑でした。


どれだけ泣いたかわかりません。


いじめというものは、いじめた側は何とも思わずのうのうと生きていきます。
咎められることもなく、今日まで忘れてすらいるのです。
いじめられた側はそうではありません。心の奥でいつまでも癒えることのない床ずれのように痛みが続き、それは悪臭を放ち続け、
目を背けたくなるほどに永遠と苛まれ続けるのです。



2-4高校生~


中学の件があった私は、私の過去を知るものがいない学校を選ぶために定時制高校に入学しました。
『義務教育までしか面倒を見ない』と語る親が中学卒業と同時に働きに出そうとするのを拒み、せめて高校には行きたいと押し切って入学しました。


入学直後からアルバイトをして学費や自分にかかる費用は全て自分が払っていました。
毎月給料日近辺だけ機嫌を取り、給料をせがみに来るような母親に辟易した私は次第に家に帰らなくなります。


アルバイトで社会に触れ、廃部になっていた部活を立ち上げ、高校に通い勉強をする。学校が終われば彼女や友人の家を転々として暮らす。
ちょっと変わった『普通』がようやく手に入り、親の言うことが全てじゃないと考えられるようになりました。


しかし、またしても問題が起きます。父の会社が倒産したのです。
母は体を壊していた為働けず、弟はまだ中学生。当然私がなんとかするしかなかったのです。
父が転職し生活を確保するまでの約2か月の間、自分が新聞配達と飲食店のアルバイトとを掛け持ちし部活もやって学校もきちんと通い、家計を助ける事になります。

ちなみに夏だから良かったものの、ライフラインは全て停止。
公園に水を汲みに行き、仏壇のろうそくで明かりを確保、シャワーは冷水、電気はつかないから家電は全滅。
携帯電話なんて持たせてもらえず、アルバイト先の人に頼み込んで名義を借りて携帯電話を使用していました。充電はもちろん学校です。そんな原始的な生活を2か月も送ったのです。


立ち上げた部活は野球でした。当時流行っていたドラマROOKIESをそのままノンフィクションにしたような状況だったのを鮮明に覚えています。
小学校・中学校ともに部活をやらせてもらえなかった私は、高校こそはと思い入部しようとしたのですが、すでに野球部は定時制であるが故に部員が集まらず、廃部となっていたのです。
新たに部員を集め、顧問を募り、実質活動が始まったのは2年生の春からでした。


私自身の事情等もあり、練習に参加できた時間は決して長くありませんでしたが、心の底から楽しくて楽しくて、部員のみんなが好きでたまらなかった。野球経験者も多かった為、大会でも好成績を残していました。
そんな青春の最後は私自身の手で破壊することとなります。


全国大会への切符がかかった試合での最終回、監督は私に代打を告げました。
三年生になった私は、アルバイトとの両立のせいで練習量が少なく後輩にレギュラーを譲っていました。
私と同じ、未経験で入部し三年生になるまでずっと練習をし続けた仲間もいました。
なのに監督は温情采配で私の事情を全て踏まえて代打を告げてくれたのです。


結果としてその打席は打てませんでした。当然です。努力が足りない者に結果は微笑まないのです。
どれだけ悔やんでも悔やみきれません。私は多くの仲間の夢も想いも、私自身の手で潰したのです。


今でも時々、思い出して布団の中で悶えることがあります。
あの時もしも自分がヒットを打っていたら人生が大きく変わったんじゃないか?
みんなの夢や想いを潰さなかったなら、今でも仲間として繋がっていたんじゃないか?
自分の人生の中で最も戻りたい瞬間でありターニングポイントでした。


2-5専門学校を経て社会人へ


部活の果てに不完全燃焼症候群になった私は女遊びとたばこ、パチンコに明け暮れていました。
何の目標もない、何の教養もない、何を考えるわけでもない。
家に帰りたくないから彼女を作って寝床を確保する。バイトしてはパチンコへ行き、適当に学校へ行くだけ。
将来設計なんて高尚なものは何もなく、ただ流されるままに堕落して生きていました。そんな生活が専門学校を卒業するまで続きます。


社会人になり、なんとなく採用をもらった会社に入社し、ただ漠然と繰り返す変化のない毎日を過ごすだけ。
そんな私にまた問題が降りかかります。両親が私の名義で借金を作っていたのです。
その額は当時の年収の三分の一という制約の限界まで借り入れていました。
自動車学校の代金やスマホ、車をローンで購入していた私は、あっという間に首が回らなくなります。


そこから始まる長い任意整理者としての生活は昨年(2019年)まで続きました。
ですが、借金の事実を知っても私は親を訴えることも怒ることもできませんでした。それほどまでに怖い存在だったのです。
"借金に関する全てを問わない代わりに、もう二度と私に関わらないで欲しい。産んでくれとも育ててくれともお願いした覚えはない。これ以上情けない気持ちにしないで欲しい。"

そう告げ、切れない縁を必死に遠ざけ、蓋をすることで精いっぱいでした。


3.婚約破棄


社会人になる前から真剣に交際していた彼女がいました。
人柄も家柄も良く、私の様々な事情を全て受け入れてでも一緒にいてくれた素晴らしい女性でした。
私が持っていないモノをたくさんもっていて、そんな彼女が羨ましくありつつも心から愛していました。


22歳の夏に私は、仕事での姿勢や成果を買われヘッドハンティングを受けます。業務内容、待遇面、勤務体系、全てに置いて恵まれた環境を手にした私は、彼女と結婚するべくプロポーズをしました。
彼女は泣いて喜んでくれました。

幸せだった。

ようやく『普通』が手に入ると思えた。


幸せに浸る日々でしたが、1か月ほど経ったある日のことです。
現場で社長が不慮の事故により命を落とすことになります。


社長と私の二人しかいなかった会社だったので、当然明日からの生活が一変します。
自分の生活もままならない私は、結婚も一旦保留をかけることに。
再就職先もなかなか見つからず、アルバイトを掛け持ちして食いつなぐ日々が1年以上も続きました。


寒さの厳しい冬のある日、彼女から呼び出され涙ながらに指輪を返されました。
『これ以上待つことはできません、ごめんなさい』と。
両親からもきっと様々なことを言われていたのでしょう。幾度となく潰されそうになる自分と戦っていたのでしょう。


私は、彼女に何も言うことができませんでした。引き留める事ができるだけの何かが自分にあるとは到底思えなくて。


彼女は今、別の方と結婚をし子宝にも恵まれ幸せな家庭を築いています。
一度愛した人だからこそ、私は彼女に幸せになって欲しかった。
私にはその幸せにするという願いを果たすことは叶いませんでしたが、その幸せとパートナーに出逢えた彼女に
『ああ、本当に良かった。これで良かったんだ。心からおめでとう』と涙ながらに感じました。



4.再就職と起業


婚約破棄の件があってから私は仕事に打ち込むようになります。
何かをしていないと正気を保てなくなっていました。
アルバイトと並行して、個人事業主として開業届を提出し転売やFXとジャンク品のリペアでお金を稼ぐようになります。


といっても稼いだお金をFXで溶かすような状況でしたが・・・。


その後程なくして現在の職業に再就職。まったくの未経験でしたが勤続して5年、そこで出会った恩人と共同経営という形で個人事業から法人化をして3期目になります。(2020年9月に退任)
従業員にも恵まれ、仕事にも環境にも顧客にも恵まれて、大きな問題もなく経営を続けることができました。


妻とは再就職をしてから出会いました。もう二度と誰かを愛することなんてないと思っていましたが、人は必ず、いつかだれかを愛してしまうものです。
妻は私の全てを受け入れ、全てを包み込んでくれて、何も言わずに寄り添ってくれて、いつの間にか自分が心を溶かされていました。
子宝にも恵まれようやく自分なりの幸せと『普通』に向かって歩き出したのが最近です。



5.自分と皆さんへ


私は思います。
この世は誰かの幸福の隣で誰かが涙を流しています。
生まれる家や親を選ぶことはできません。生まれた瞬間から不平等だけが平等に与えられ、その与えられた不平等と限られた選択肢の中で、自分を守るために、生きるために
時に人を蹴落とし、時に自分を殺し、同調圧力の首輪をつけて息を潜めなければならない。


誰かが定義した幸せを追い求め、大衆が当たり前に過ごせるための平準を普通と定義し
自己よりも弱い人間を踏み台に、食い物にして生きていく。
私もその例外ではありません。


誰かに与えてもらえる事は殆どなく、生きるためには自分の力で手に入れるしかなかった。
何度となく心を殺され、その度に自分で立ち上がらなければならなかった。
自分がされて嫌だったことを、たくさんの人に報復と名を打ってやってきた。
でも最後にはやっぱり人の心を捨ててまで、割り切ることができないのです。


私は両親も、いじめてた人間も、昔の自分自身も
今このnoteを執筆するまで永遠と恨み妬み憎んで蓋をしてきました。
もしかしたらその当事者の人間に見られるんじゃないか?とも思い躊躇しました。


しかし、執筆するにあたり背中を押してくれた妻や恩人、そしてTwitterの方々へ今一度しっかりと向き合いたいという思いと自分が逃げて避け続けてきた過去に立ち向かおうと思えたこと。


また、もしその当事者が見たとしても自分はまだ死んでいないということを、こちらから発信してやろうという気持ちで書き上げました。



6.おわりに


ここに書いた以上にまだまだお伝えしたいことや幸せな出来事もあったのですが、自分というものや人と向き合う事に対して『腹を割る』ということを第一に意識して執筆いたしました。

今日までの全ての出来事が今この瞬間の自分を作る。

それが全てです。1秒先の未来はある程度自分で変えられる。私はこれからも最後まで自分らしく、自分流で誰よりもお人好しな『ああああ』という人間なのだと、ここにご紹介させていただき、この記事を締めさせていただきます。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。


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