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まえがき 宗教で愛を哲学する

どんな経験でも人に話すことによって頭が整理されて、自分の状況を確認できる。
アウトプット作業はヒトを強くするために必要なことです。

人生は自分の力ではどうしようもないことの連続である。
そして、その苦難が大きければ大きいほど、ヒトは多くのことを考え、状況を改善させるためにもがく。
そこに運命の面白さを感じなければならない。
どんなに悲しくても辛くても面白さに変えなければ、不幸が不幸のままになってしまうから、苦難を面白くして笑うことが重要で、笑うことで脳からセロトニンをだして、不幸を苦悩にせず、乗り越えられる状態にする。
ストレスを危機と認識すると、脳が生命維持のために不安要素を排除する方向に動く。
つまり、逃走か闘争かという状態であり、いつでも闘える臨戦状態か、すぐに逃げられるように準備をしてしまう。

私はつらいことがあるとお笑い番組をみたり、医者に行ったりした。
だけどやっぱり人に話して笑うことが一番安定することを知っている。
そこに人肌があればセロトニンがでる。

私が今悩んでいることは、愛が解らないということです。
他人が何を考え、どうしてこのような行動に出たのか?
自分が見て感じたことしか解らないのに、他人のことはもっと解らない。
しかし、解らないことを解らないままにしておくことはとてもこわい。
だから「解ったつもり」になることで強くなれる。
解らない他人を少しでも解りたいと思う。

私は農耕時代の遺伝子を受け継いでいるとおもう。
だから、狩猟民族の気持ちがあまりよくわからない。
農耕民族は、協力して耕し、収穫し、貯蓄し、分ける。
そして私は”逃走か闘争か”の選択肢のなかで、いつも逃走を選んできた。
なぜならば闘うことが苦手だからだ。
なるべくなら、戦わずに逃げたい。
人生は有限であり、元気に活動できる時間は限られている。
解らない人のために対処法をオーダーメイドで用意することはとても疲れる。
逃げるという選択肢はとても重要であるはずだ。
しかし、逃走した先に闘争しなければならないという場面が人生の中では出てくる。
それは仕方のないことだと思う。

ではなぜ人は争うのだろうか?

争いの根源には愛があるからだ。
戦争が”愛する人を豊かにしたい守りたい”という気持ちの具現化であるように、終末期医療でチューブだらけになって生きている人も、愛の具現化だと思う。
愛があったからそばにいたし、そばに居たから争いがおきることもある。

だから私は愛が解らない。
愛を解ったつもりになっていたけれど、本当の意味で愛が解らない。

私は科学教信者のため憶測ではあるが、宗教は愛を正しく導くことだと思っている。
宗教を全くやってこなかったので、私は愛が解らないのであろうか?

愛が解れば、世界から争いがなくなるだろうか?
宗教とは資本主義社会の合理的な世界に、非合理の重要性を説く。
宗教や哲学とは、非合理で、非生産的で、合理社会とは相性が悪く、何千回祈った先に何が変わるかが解らない。
けれど、人として重要な部分が詰まっているのかもしれない。

wikiで愛を調べてみると真っ先にキリスト教が出てくる。

人類愛。フィランソロピー。たとえ民族が異なろうが、文化が異なろうが、どの人間のことも心から大切に思うこと。深く共感し、一歩踏み込んで、実際にその人のために具体的な行動を開始する心・精神。キリスト教ではしばしば「隣人愛」と言う。異民族でも隣人である。イエスが「善きサマリア人のたとえ」で弟子たちに教えた愛。こうした人類愛が、赤十字、UNICEF、国境なき医師団等々の組織設立やその諸活動となって表れており、実際に、苦しむ人々を助け、闇に満ちた世界に光を、絶望している人々に希望をもたらしている。(なお、古い日本人がやりがちな、異民族のことをただ漠然と他人事のようにとらえ傍観者の状態にとどまり、そしてもっぱら自己保身のために一応「存在を肯定する」など言っているだけで、何もしていない状態は(自己中心的な自己愛でしかなく)まったく隣人愛ではない)

キリスト教は4種類の愛を説いているらしい。
仏教も愛と慈悲を説いているらしい。
イスラム教もジャイナ教も、幕末三大新宗教も愛を説く。

やはり宗教と愛は密接に関わっている。
哲学とはそのものの本質を洞察することであるから、今日から私は宗教で愛を哲学したいと思います。

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