サバイバル能力が高い人
私はサバイバル能力が高い人が好きだ。
レヴィ=ストロースの野生の思考でもみられるブリコラージュ(ブリコラージュとは、寄せ集めでなにかを造ったり、間に合わせの修繕といういみで、繕う、誤魔化すというフランス語のブリコルール(bricoler)に由来する。)ができる人は頭が良いと感じる。
私はスーツケース1つの中身のほとんどを子どものオムツで占めて、2歳の子どもを抱っこしながら20カ国を巡る旅に出たことがある。
その旅は夫と行ったこともあるし、子どもと2人で巡ったこともある。
その際は必ず足りないものを別のもので補う必要があった。
ラマダンのドバイや、アテネの島を巡る船旅、車窓から見る山のスイスや、フィヨルドのノルウェー。
サーモンをカモメに攫われた朝は、捨てられる下着を大量に詰めたカバンと、現地で売っているお土産の安いTシャツを着回しながら慌ただしく観光を楽しむ。
野良犬に追いかけ回されたかと思えば、ドレスを着て宮殿を闊歩した。
拙い英語でコミュニケーションをとると、誰もが優しく教えてくれた。
あのときは荷物が少なかったから、すぐに旅に出れた。
余計なものは全部捨てて、思い出と下着だけあればなんでもできたし、どうとでもなれた。
格安飛行機で経路を探し、さまざまなトラブルに対応して生きていけた。
きっとそれは荷物が少なかったからだ。
その楽しかった思い出は、何千枚の写真となってわたしの寝室を埋め尽くしている。
長女が大きくなってさらに長男が生まれると、私の荷物はどんどん重くなった。
しばらくは旅はお休みだけれど、別にそれは構わない。
もっと大切なものを見つけた。
被災地
面白い話を聞くのはみんな好きだと思う。
特に自分が経験していないような珍しい話は、聴き手を魅了させる。
しかし特別な経験をしていなくとも、実は誰もが自分の人生を生きていたらそんな話は持っている。
それに気づけるかどうかはその人次第だけれど。
被災地をめぐった時の話を聞いた。
ボランティアに行って、ボランティアに行った側なのに炊き出しに助けられて、被災地の崩れた場所でも逞しく商売を始める人の強さを見たという話だった。
人はたくましい。
それが本来の誰もが持つ姿であると私も思った。
戦争の中の人たちやスラムで暮らす子どもたち、78億人いる世界人口の約20%はアフリカの人たちであるが、その多くは貧困である。
その中でも人はたくましく生きている。
私を含めて、日本人は恵まれていると思う。
日本に生まれただけで、富を享受できている。
美味しい水に恵まれて、便利な街を体感できる。
その事実を忘れてしまいそうになる。
スリ、盗み、騙し、嘘。
そういった行為は残念だけれど、それをさせてしまう背景がある。
海外に行くと強く感じた。
本当は誰しもそんなことはしたくないはずなのに、それをしないと生きていけない人もいる。
羅生門を感じた。
そのことを忘れる時がある。
ちょっとしたことがあるだけで自分がとても辛いと悲劇ぶれる。
本当は世界にはもっと地獄があることを知っているのに、それを棚にあげてしまう愚かな自分がいる。
私は過去に地獄の入り口にいた。
一番辛かったのは母親が壊れたことだけれど、けれどその地獄では別に死なないし、食べるものもあった。
地獄の入り口で世界を知らずに泣いていただけである。
泣くだけでは何もならない。
災害時のように親が散らかした部屋一面の割れたガラスを片付けながら、家がなくなる不安に怯えて、強くならなければならないとその時思った。
糧になる話
コロナ渦で子どもたちに配られる給付金の話で、自分が納めた税金ではたったこれしか助けられないと言っていた彼は、単純にかっこよかった。
叛逆の精神で着ていた服が斬新だった。
私は子どものころからハーマイオニーだったので怒られることがとても苦手だ。
"怒る人"自体が苦手であり、とても萎縮する。
頭が真っ白になって言葉が出なくなる。
だから親にも先生にも、"絶対に怒られないように"用意周到な回答をする。
だから、わざわざ怒られに行くのに、さらに怒られそうな格好をしていく彼が笑えた。
怒られるという行為は苦痛であるはずなのに、ただ真面目に怒られるだけであるのはつまらないとする彼の叛逆の服装が面白かった。
遭難
山で遭難して生死の境にいるのに、サバイバルして適応できる能力がある人は、ニンゲンとしての本能的な強さを感じる。
本当はすごく大変で、たくさんの重要な決断をしなければならない場面で、ユーモアを交えて話す姿が印象に残る。
ただ私はその経験に圧倒された。
自然に飲み込まれそうになった経験は私にはないけれど、生残る人とそうでない人の違いはなんであろうか?
"運"だけであるのか不思議である。
自然を前にした圧倒的な無力感と被害は未だ味わったことがないけれど、この先も災害は多く起こるから私も巻き込まれる日がくるかもしれない。
そのときは彼のように、心を強く持てるようにしたい。
皇族
テレビで話題になる皇室のご結婚を、非難ではなく同情をしている人が好きだ。
最近の私は長いものに巻かれて、大きな流れの方に味方することが多い。その方が合理的に体力を削らずに生きていけることを知っているからだ。
例えばママ友との会話では、"彼らの結婚はとんでもない非常識"という態度を示さなければならない時があるが、本当は眞子さまの気持ちがほんの少しだけわかる。
自己決定権と自由と世間の目。
それらが若い2人の心をどんなに蝕むかもわかる。
だからそっとしておけばいいのにと感じる。
それなのに、私はそこで"彼らは非常識"という意見に笑顔で同調する仮面をかぶる。
そして少し落ち込む。
同調圧力、集団の力はすごい。
そこでサラッと、2人が幸せになればいいよねって言っているけれど、税金や歴史や皇族のその他の家族のことを考えると、正義の裏はまた別の正義があって
世界はこうやって正義と正義の戦いを繰り返しているのかもしれないと思った。
ちゃんと自分の意見をいえる人を尊敬した。
優しさ
強さを持っている上で優しい人は、最悪を知っていて、それを乗り越えるための術も持っていて、それを"面白さ"に変えれることも知っている。
私は、私を面白くしなければならないことも知っている。
私は弱いから、強くならないといけない。
強くなったら優しくならなければならない。
母親は弱い。
守るものがあると圧倒的に弱くなる。
弱いからただ泣くだけではだめで、だから強くならなければならないとあのとき誓ったことを思い出した。
偶然にも出会った彼は、私に羽が生えていた時の記憶である。
高校生の私は、どんなに意味不明なことを他人にされても、面白さで返していた。
アルバイトで帰宅時間が0時を回っても、お昼休みには教室を抜け出して近場のイベントに参加して"面白さ"に会いにいっていたし、疲れて遅刻しそうなときは何処かで必ず遅延している電車の証明書を取るために寄り道した。
タクシーも、パンクして打ち捨てられた放置自転車も最大限に利用して時間を作っていた。
仲のいい女の子を放置自転車の後ろに乗せて、夢を語りながら自転車を漕いだ。
決して上品ではなかったわたしだったが、周りの友人はなぜか"上品な子"が多かった。
オーケストラ部でバイオリンを弾き、選択体育でゴルフを選び、茶道をしていた経験からだろう。
中間層を体験したことがないから普通の子に憧れる。
お父さんとお母さんがそろっている、一般的で平和な家庭がいい。
平凡な家庭は日本には少なくなっているのかもしれない。
平凡な家庭は優しさで溢れているように感じるときがある。
最下層か、アッパー層の両極端な暮らしが私を形作る。
平凡
学校では、林家ペーパー子さんのようにいつも必ず写真を撮っていた。
必ず来る別れを恐れて、思い出をできるだけ残しておきたかった。
ただの平凡な大人になることを恐れていた。
自分なら何かできると思っていた時期がある。
その感情は傲慢で、平凡な大人がすごいとは知らなかった。
守るものができてしまうと、攻めることを躊躇する。
サバイバルができない。
保守的になる。
平凡を守るために過ごす。
私の羽根はいつまた生えるだろうか。
そう思って数えていた年月が振り出しに戻ったときは、またおかしくなりそうだった。
待っていては何も起こらないから、行動することが大切であるが、それは平凡を壊す行為でもある。
羽根を生やしたいけれど、まだ時間がかかりそう。
平凡で優しくありたい。
本が欲しい