『Chocolate Apricot』(2400字, ショートショート, W004, 20/2/13版)

 

 二月半ば、空は鈍色。
 外では今にも雪が降り出しそうな、凍えそうな日に、I型キッチンの手元を照らす小さな青白い蛍光灯と十年戦士のおんぼろハロゲンヒーターだけがアパートの狭い世界をほのかに照らしてる。
 僕は彼女を待っていた。
 消え去りそうな灯りの下でそのキッチンの小窓から外を眺めながら聞くその孤独で静寂の世界も嫌いじゃないけども――アパートの外階段を勢いよく駆け上がってくる足音、ドアノブをひねり、重たい金属扉の軋む声が聞こえるのを、少し特別な気持ちで受け入れた。
 「ただいまっ! ごめんね~わたしの当番なのに、遅くなっちゃって!
 ――てか暗くない? あと寒い!」
 玄関から慌ただしい声が響く。レジ袋にちょっとした喧噪と生活感をパンパンに詰め込んで、さっきまで僕と沈黙が支配していたキッチンに彼女は侵入してきた。
「そこのダイニングの電球、切れちゃって」
 僕は暗闇のほうを指差し言った。
「そうなんだ? 言ってくれれば買って帰ったのに」
 良い言い訳を考えるよりも先に「エアコンつけて!」と彼女は叫ぶ。僕は言われた通りダイニングにある我が家で唯一のエアコンを起こしに向かった。
 その短い間にも彼女は身に着けていた黒のオーバーコート脱いでを手早く畳み、買い物袋と一緒に置いた。
 そして息つく暇なく袋の中身を片付けていく。
 縦に無数のラインが入った白いタートルネックのニットにデニムのパンツ。生気の薄い蛍光灯に照らされたその後ろ姿は、なんら気負いのない服装とはいえ、スタイルの良さが際立って見えた。
「まずはごはん! とにかく夕飯! 四十秒で支度するから!」
「いや、普通に無理でしょ」
「いや、できるんだなぁこれが」
そう言って僕のほうにくるりと振り返る。
インスタントカレーの箱を左手に持ち『あたため方』のイラスト説明部分に人差し指を突き付けた。
「レンジでチンなら四十秒!」
 そして得意顔。
「……うん。で、ごはんは」
 僕の言葉に今度は口をあんぐり開けて呆然と立ち尽くす。
「ああー! しまった! ライス~!」
 ドヤ顔からの絶望・失望――くるくると移り変わる表情を見ていても楽しいのだけれど、さすがにちょっと可哀そうに思ったので教えてあげた。
「僕がもうごはん炊いてるよ」
「ほんと! ありがとう~!」
 感嘆の声をあげながらもやはり作業の手は止めず、炊飯器の温もりを確かめ、取説イラストの通りにカレーの箱を畳み、電子レンジに放り込んだ。
 タイマーを一瞬で合わせ、スタートボタンをプッシュ。
「サラダ作ってあるよ。冷蔵庫」
「うそ! たすかるー!」
「レタスちぎって、水菜を切って盛っただけだよ。たいしたことないよ」
「それで十分だよ」
 ――たいしたことないことも、できない人もいるんだし――
 お皿を取り出しながらポツリと漏らしたその一言を、僕が聞き漏らすはずがなかった。
「あの人は、ね」
「……『あの人』じゃなくて、『お父さん』でしょ」
 僕はそこにさらに言葉付け足そうとしたけど、チン!と少し間抜けた音がして、やめた。
「腹減っては戦はできぬ、ってね。早く食べましょ」
 くすんだ黄褐色の長い髪をグレーのシュシュで束ねながら、彼女――母さんはすこし不器用にはにかんだ。

「ねぇ、今日って二月十四日だよね?」
 今夜の食卓テーブルにはインスタントカレーとグリーンサラダが二つ並び、その真ん中には、非日常的なロウソクの灯りという彩りが添えられることになった。
「聞いてる? ねえ? バレンタインデーだよね?」
「……」
 ごはん、カレー、ごはん、カレーの順に口に運びながらも母は追撃の手を緩めない。
「えっと、誰だっけ? ユキナちゃん! 昔よくもらってたじゃない?」
 その近所のおばちゃん的な発言イヤだわ。
「……ま、それはそれとして、義理チョコっていう戦利品くらい、あってもいいんじゃない?」
 僕が子供っぽい沈黙を決め込んでいるから、自分のターンだとばかりズケズケと攻め込んでくる。ロウソクの炎という柔らかでロマンティックな黄色い光が、火に油を注いでいるような気もする。
「……『敗軍の将は兵を語らず』」
「へぇ……?」
「いや、その親父ギャグつまんないから」
「ハイハイ――まあそんなことだろうと思いまして今年も買ってきてますから」
 そういうと席を立って小走りにキッチンに向かい、畳んだコートから白くて小さな箱を取り出す。
「これ、デパ地下で買ってきちゃった」
「高いやつじゃん」
「シミズさんに頼んで社割にしてもらったから大丈夫」
 そういうと母さんはテーブルにそれを置いて、胸を張ってみせる。
「……ありがと。開けていい?」
「どうぞ」
 とモデル立ちのまま彼女は言う。
 リボンと包装を丁寧にほどいていくと、四粒のひとくちチョコレートが恭しくケースに収まっていた。
「これ、一粒百円超えるやつじゃん」
「だから大丈夫だって。それ気にするところ~?」
 さっきよりもずっと無邪気に彼女は微笑む。
 吹けば儚く消えそうな揺らめき中で、それだけが確かなことに思えた。
「これが、ダークチョコレートで、これがミルクチョコレート、これはホワイトチョコで――」
「僕、好きな人がいるんだ」
「最後がアプリコット――えっ? なに? 急に? だれだれ??」
 彼女の顔が子どものようにはしゃいでいる。
「毎年欠かさず、僕にチョコをくれる人」
エアコンの暖気が強く吹き付ける音がする。ロウソクの炎が大きく揺らめく。
 母さんの表情が徐々に大人のそれに変わっていく。
「……あのね由太君、あのときのことは――」
「――降ってきたね、雪」
 視線を外して窓に目をやると、カーテンの隙間からガラスを叩いては音もなく溶けて消えてゆく雪の結晶が見える。
 その白以外は暗闇しか見えない。
 やがてそれも結露でほとんど見えなくなっていった。

20200213 作品番号W004
バレンタインデーにチョコレートをもらえなかった男の子の話(Pattern A)

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