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『Two and One Thousand ~二ノ宮双葉について私が知っているほんの少しのこと~』(4600字, 短編小説, W010)【W009『そらいろのカニ』オマケ1】

 彼女が学校に来なかった日の帰りには、コンビニに行ってジンジャーエールを2本買う。
 それが小さな習慣になっていた高1の11月なかば、或る日の放課後。
 いつもの手土産を両手に携えた私は、ビルの建ち並ぶ喧噪の県道を、夕刻の繁忙の雑踏を抜け、気の抜けた空虚な住居が建ち並ぶ単調な団地を通り、堤防沿いの路に出た。
 ここではこの時間、行き交う人や車はまばらだ。
 夕暮れに色づく堤防上の静かな小径で、私は茜色の秋風(あきかぜ)を身にまとい、飲み物がぬるくならないよう急いで歩く。
 やがて遠くに見慣れた影を見つけた。彼女は草陰(くさかげ)のなかで制服を身にまとい、仰向けに寝転んでいた。たぶん横になりながらスマホで音楽でも聴いているんだと思う。
 背は高く、手足も長い。描かなくても整った柳眉に美しい稜線を描く鼻梁と薄い唇。控えめに言っても美人の部類に入ると思う。華奢とか脆いとか、そういう言葉がよく似合う。
 私は歩を緩め、右手に持ったジンジャーエールを自分の目の前にかざしてみた。金色の気泡がシュワシュワと浮かび上がっては消えるウタカタに彼女が沈んでいるように見える。
 まるで金をも溶かす橙色の王水のなかで余計なものを溶かしつくしてもなお悠然と揺蕩(たゆた)っているよう――
「……そんなにまじまじと見られると穴が開くわ」
 彼女はそう言いながらイヤホンを外して半身を起こし、私を見上げた。
 白目勝ちの三白眼と力強いまなじりは、彼女の芯の強さを物語っている。
 私はいままで色メガネ代わりにしていたペットボトルを彼女に差しだし、弁解した。
「ミステリアスなミストレスに見惚れてた」
「なにうまいこと言ってる感出してんの……今はただの女子高生だよ」
 ほんと、線のように細い女子高生。
「セン、ちょっと太った?」
「ちょ――もうちょっとオブラートに包んでくれても良くない?」
 あと、歯に衣着せぬJKだ。
「てか違うの――いや違わないけど……今日は午後から文化祭の準備でね、試食会するって話だったの。出し物の――」
「カニ汁だっけ、生徒会は?」
「そうそう、それでクラスの出し物準備から逃げて生徒会室行ってみたら、誰もいないの! 後から調理担当の三島だけアルミ鍋持ってきたけどさ」
 結局、三島と2人で5杯ずつ食べたのよ! そりゃあ太るよ!」
「でもいいじゃない、カニ」
「カニとはいえ限度があるわ……出すかと思ったわ」
「貫禄は出てるよ。当日は着ぐるみ着るんでしょ? セン大丈夫、入る?」
「いや入るよ! はみ出ないよ!」
 勢いでジンジャーエールをぐっと煽り、
「先輩が来なくて残念だったね」
「!」
 ――あやうく吹き出しそうになった。
「……うん。事情は知らないけど、いろいろと忙しいんじゃないかな」
「『一ノ瀬』先輩、だっけ。どこが好きなの?」
「いや、別に、好きとかじゃなくて、ほら、あの人はなんか学校のアイドル的な人で――」
「はいはい分かった。で、どこが好きなの?」
 皓歯の佳人は好きなことが言えて羨ましい限りだ。
「いや、だから、そんなんじゃなくて……先輩は頼りがいがあって、なんでも知ってて、気が利いてそつなくこなせるし、あと所作にも品があるというか――」
「へえ~スーパーマンじゃん」
「だからほら、私には、つり合わないし」
「ふ~ん。アタックしてみればいいのに」
「無理無理!」
「せっかく学校行けば大抵会えるっていうのに?」
「大抵学校に来てない双葉がそれ言う?」
 彼女はあまり高校には来ない。クラスでも孤高を保っている感じなので、私と彼女との接点はこの河原でしかない。5月(さつき)にここで出会って以来、あまり変わらない関係だ。
「センはさぁ、学校の友達にはなんて言ってここ来てるの?」
「ほかの誰にも教えてないよ、ここに来れば双葉がいること」
「いやそうじゃなくて、付き合いとかあるじゃない」
「彼氏と約束あるって言えば、なんにも言われない」
「ああ…………」
「待って待って待って待って、その含蓄ある間は何?!」
「今どきの女子高生は『忖度』もできるのね、私は無理」
「双葉も女子高生じゃない、制服もちゃんと着てるし」  
 彼女が学校に行く気がない日でも制服を着ているのは、他にあまり服を持っていないからだと前に言っていた。
 今日は彼女のお客さんがそれを望んでいた可能性もあるか。
「そう『制服で』っていう注文だったわ今日――あ、余計なこと思い出しちゃった。聞いてくれる? 今日の客さ、帰り際になんて言ったと思う?
『君はまだ若いんだから、こんなこといつまでもやってちゃいけないよ』だって! さんざん乗っかっといてさらにマウント取ってくるとか……やった後で言う滑稽さに気づけよ。ってか若いうちに稼ぎたいからやってんだよ馬鹿か。 ムカついたから倍のカネ捕ってやったわ」
 彼女はジンジャーエールをぐっと喉に流し込んで、炭酸と共に息巻いた。
 私も一気飲み――二酸化炭素を三度下品にゲップして、その惨状に噴き出す彼女、その彼女を見て笑う私。
 人気のない河原でふたり、しばらく笑い合ってた。
「……ほんと、センはすごいよね、色んな笑わせ方もってる」
「せめて『励まし方』と言っていただけません?」
「でもさ、そんな風に自分を貶めてまで笑い取らなくていいのに」
「そういうの無自覚系女子なんで、お気になさらず」
「えー? 天然ではないでしょ。だっておバカのほうが得だと思ってるくせに」
 そのくせ、ふいに核心を突いてくる彼女はテクニシャンで、
 まともにやりあうと、身ぐるみはがされるのがオチだ。
「……そいえばさ、さっき何聴いてたの?」
 とりあえず、話題を変えることにした。
「『六本木心中』」
 彼女が身体を売っていることを、とやかく言うつもりはないし、
「……マジで」
 その話はむしろ楽しい。
「マジで」
 ただそれは私の知る世界のルールとは違って、
「いや昭和かっ!」
 生きてる時代がズレてるよな感覚。
「あっ! アン・ルイスを馬鹿にしたな」
 彼女こそ私を少し小ばかにしたようにまた笑う。
「……ってレコード時代の人じゃない?」
「……やっぱ釣れるかどうかは針を落としてみなきゃ分からないんじゃない?」
「……えっ? なに? レコードの話? 釣りの話?」
「いや、JKの恋愛話」
 とか言いながら彼女は、両手で釣り竿を振るようなパントマイム
「無理無理無理! だいたい私がどんな魅力的なエサを持ってるっていうのよ」
「ん……JK?」
「考えてそれ?! DK相手にJK売るって――日本人に水売ってるようなもんじゃん!」
「ん、微妙にうまいこと言ってる?」
「いや、言えてはない」
「でも、センは面白いじゃん」
「いやいやいや、面白さでイケメン攻略できるのは少女漫画だけの話!」
 双葉は楽しそうにニヤニヤしている。私の恋バナをエサに何を釣るのか、いやジンジャーエールの肴か。
 なんだか少し腹が立ったので反撃を試みることにした。
「双葉こそいないの? 好きな人」
「いるよ……って何その顔!」
 彼女は私の顔を見て、ヒクヒクするお腹を抱えてゲラゲラと笑っている。
 速攻で返ってきた予想外の答えに、どうも表情筋が、あらぬ方向に、弛緩した、かしら?
「ってか人の顔見て笑いすぎ」
 彼女は涙に濡れた長い下まつげを人差し指で軽く拭った。
「はぁ……あんまり笑かさないでよ! メイクしてるんだから」
「えっ、悪いの私?」
「ごめんごめん、あたしあたし」
 彼女は自分の身体のコントロールを取り戻し、いつも通りの独特なトーンで語った。
「あなたが好きな人と正反対。頭は良いくせに頼りなくて、気ばかり回って不器用だし、弱くてダサい人よ」
「どうして――」
 その時、彼女のスマホのアラームがけたたましく鳴り響いた。
「仕事?」
「ん……約束の5分前」
 彼女は時刻を確認して、その電源を切った。
 これが彼と会う時のルールだから、と彼女はスマホの真っ黒な画面を見せて言った。
「それって……やばい人じゃない?」
「ん~やばい人かもねぇ……たぶん、そのあたりでこっちの様子を伺ってるんだじゃないかな――あ、キョロキョロしないで」
「あ、うん……」
 魚が逃げちゃうから、と彼女は白々しく笑う。
 風が肩まである彼女の髪を強くたなびかせると、彼女はポケットから髪留めのゴムを取り出して口に咥え、両手で黒髪をかき上げてと手早くポニーテールを作った。
 双葉は彼女なりに品良く、お開きのトキを伝えてきたのだ。
「ねぇ双葉、私たち――」
「ちょっと、『ずっとも』とか空っぽな言葉いわないでよ」
「……」
「言おうとしたのね……」
「いいじゃん、少しくらい、仕事、サボっちゃいなよ」
「そうはいかないから」
 私はすっと息を吸い込んでから川に向かって叫んだ。
「……ずっと友達だからね!」
「あーやっぱり言っちゃった」
 なんの面白みもないシュプレヒコールに彼女はしょっぱい顔をした。
 別れを告げた風が、彼女のさわやかな柑橘系の香りを私の頬へ運んできていたことに気が付いたけれど、
 私はもう空になったジンジャーエールを持って彼女の反対方向に立ち去らねばならなかった。


 私たちを包む炭酸の抜けたオレンジ色がまだ、その甘ったるくきらめく輪郭を与えていると思い込んであの頃――
 当時の私は、かつての大人たちが敷いたという強固なレールとやらが今はもう無かったとしても、メインストリームの中にいることが大事なんだと思っていた。
 その大きな河の流れの中で、河岸に滞る澱みにならないように、道はそれぞれあれど流れの中にさえいれば良いと思っていた。そうすれば、多少の寄り道をすれども、きっと、あるべき場所へと押し運んでくれるはず――
 それでも私はその日そこで立ち止まった。
 私は振り返って、もうすでに手の届かないほどに距離がはなれていた彼女に、大声で言っていた。
 「ねぇ双葉、私の処女、奪ってってよ!」
 ひとつは、単に父と母が『お話合い』をしている家に早々に帰りたくはなかったからだ。
 もうひとつは、とにかく流れに逆らってみたかったのだと思う。
「ごめん、私も処女」
 その時、私がどういう顔をしていたのかもう覚えていないのだけれど、
「ウソ付きかたがテキトーすぎ!」
 彼女は少しだけ困った顔をしていた。
「いいじゃん、後生大事に持っとけば」
「16歳まで捨ててないなんて、今日び、寧ろ負債です」
「ってか私とするの、高いよ」
「マジ? 友情割とかないの?」
「友情とかあるなら、割らない」
「友情は割れないみたいな? お金で友情は買えない的な?」
「よく分かんないけど、そういうこと」
「よく分かんないのに、どういうことだよ」
「……じゃあ倍の32まで捨て損ねてたらタダでしてあげる」
「そんな現実重い。魔法使いになってるじゃん」
「じゃあ、あいだをとって24歳」
「しょうがない、それで手を打つ!」
「決まりね」
 そして彼女は気に入ったのか、また釣りの、渓流釣りのまねごとを始めた――良くしなる細い竿を寄せては返し、釣り糸は空中で優雅に波打ち、最後は勢いをつけて杼(ヒ)に似たルアーが遠く川の央まで届いた。
 空想の竿先を見つめる彼女を私は見つめていた。
 対岸では新しい夜へとひた走る陽が重々しく横たわり、そこから川面へ飛びだした小さな光の子が軽やかに舞っていた。
 それが彼女の竿をつたって、青白い頬の上や黒いウマのしっぽの下で活きのよいサカナのように跳ねまわり、黍色(きびいろ)の鱗をまき散らして、ヒレもハネもない私たちを嘲笑うかのように鮮やかで眩惑的な陰影を形作っていた。

[EOF]

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