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狭間

私は言葉を思考の型押しの枠のように使ってしまっていると、以前「言葉の呪力」というnoteで書きました。その型押しの息苦しさをこの頃強く感じている。そういう話。

ただ今回は、自分の思考の中で言葉を型押しとして使ってしまうことが苦しいわけではなく、
会話の文脈の中で何か言わなければならないこと、まだ形の定まっていない考えや気持ちに言葉による型押しを急いでしまうこと、そういったことが苦しい。

人の悩みや過去の経験、そういったものを聞いたときに「わかるよ」という言葉を発してしまうことがある。逆に私が「わかるよ」という言葉を渡されることもある。自分が言うにしても、言われるにしても、
なんて不信感の強い言葉だろうと思う。

「わかる」はずなんてないのだ。本当に相手の経験や気持ちを「わかる」ことなんてできやしないのだ。
私の、私だけの、私を私たらしめているこの経験や気持ちを、相手が「わかる」こともないのだ。
わかってたまるか、と心の中で毒づいてしまうことすらある。

でもじゃあ、自分が相手に「わかるよ」と言うときに嘘をついているのかと言えばそうじゃない。

本当に、「わかる」気がするのです。
あなたの苦しみ、あなたの悲しさ、あなたの遣る瀬無さ、あなたの悔しさ、その他あなたが言葉にできなかった(しなかった)であろうたくさんの雰囲気的なものを、私は確かにこの手で受け取ったのです。
「伝わってますよ」「受け取りましたよ」そして「わかる」はずのないあなたのことを私は「わかりたいのです」。

そういう柔らかい気持ちを「わかる」という言葉一つに乱暴に詰め込んでしまうから、窮屈なんだろう。

「わかる」と言えば軽率で、「わからない」と言えば投げやりで…「わかる」と「わからない」の狭間に無限の思いが広がっていて…

「わかる」「わからない」という言葉でパチンと型押ししてしまうとき、この柔らかい気持ちは一体どこへ…


「それをしてどうなるの?」「それは何の役に立つの」といった疑問に答えるときも同じような苦しさを感じる。

結論から言えば何かにはなるし、何かの役には立っている。
しかしそれは頭の中にふわりふわりと泳がせていて言葉へのパッケージングをしていないものだったり、
「在る」のは確かだけれどまだ発掘できていない宝石のようなものだったり、
自分ひとりで尊さ・その大切さを抱きしめていたいものだったりする。

しかし言葉で答える必要があるとき、特に「何の役に立つのか」なんていう問に答えるときには、社会と(少なくとも目の前の相手と)その価値を共有できるような答えでなければいけない。
…かのような「圧」を感じてしまう。

「美しいから」
「感動するから」
「私の日々を彩るから」

そういった抽象的・主観的な答えは、答えとしては物凄く弱い。
そもそも「役に立たなきゃいけない」「役に立つ方が良い」
そして「答えなければそのものの価値がない」かのような圧すら感じてしまうのは、私が怯えすぎているからだろうか。

しかも人が会話の中で自然に(違和感なく、相手に負担をかけずに)やり取りできる文字数や言葉遣いといったものはある程度限られている。その上限量の中で、テクニック要らずで、価値を伝えられるのが、統計や売上や実利などの「数字」で裏付けるやり方だ。もしくは一般論。

この厄介な上限を解放したければ、それなりに真剣な話し方に切り替えなければいけない。相手に伝えるために必要となる表現力も段違いに上がる。

だから私は今日も、この違和感と苦しさを押し殺して無難な言葉で受け答えをしたり、

自分の中の曲げ難いものを守るため、定型文の破壊に挑んで見事に砕け散ったりするのだ。


その問いに答えてしまったら色褪せてしまいそうな、
言葉にしたら崩れてしまいそうな、
まとめたら散ってしまいそうな、
そんな

「在る」と「無い」の狭間に漂わせておきたい想いや価値がたくさんある。

だから、お願いだから、「それ」を私に言わせないでください。言葉にさせないでください。

そしてどうか私に沈黙する勇気を、この胸の内を掘り出して過不足なく言葉にする力を…

私の心の中で生まれた種は、今日も

私が時期や育て方を間違えたばかりに、乱暴に外界に投げ出され、そして花を咲かせることすらできず、死んでしまうのだ。

そんな花の…花になれなかった骸たちの中に平伏して呟く。

ごめんね、ごめんね、


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