見出し画像

つい当事者意識で見てしまう高校野球

2023年、高校野球栃木大会は
文星芸大附属の16年ぶりの優勝で閉幕。

2007年以来の文星は甲子園。

本当におめでとうございます。

決勝戦では作新学院との対戦で、8回まで文星がリードしていたけれど
9回表の土壇場に作新が5−5の同点においつく展開で
私は当事者でもないのに心臓バクバクで、(おそらくこうなってた人たち多かったと思う)
もし私が勝利の女神だったら、両チームに微笑みたかったなと思った試合だった。

9回裏、追いつかれた文星は1死走者なしの場面で
5番捕手・黒崎選手が2球目のスライダーを捉えて左翼スタンドに運び
劇的なサヨナラホームランで幕を閉じるという結末になった。


今こうして試合展開を書いているだけでも
あの時の興奮が蘇ってきてしまい、いろんな感情が入り混じる。


当事者ではないのに。


なんでこんなにも当事者ではないのに、当事者意識で見てしまうのだろう
高校野球というものは。


それは取材の回数とか、選手たちとの関わりがあるからというのは全くなくて、
なんなら初めて見る高校野球の試合でも当事者意識というものは自ずと芽生えてしまうから、、、、不思議。


「球児たち頑張っているから」
とかそういうざっくりしたものではなく、


「負けたら終わりだから」
とかそういうものでもなくて、


きっと当事者意識で見てしまうのは、勝手にこちら側が何かに共感しているからなんだと思う。



さてこの「共感」とはなんなのか。


私は野球をやったことがないから
きっとその共感は球児たちではなく、
周りの支えている人たちへの共感をしているんだと思う。



おそらく、保護者のみなさんへの共感かな。



自分が高校生時代にバレーボールをやっていた時って、
ちゃんと両親に感謝の気持ちを持ってやっていたかと言われたら
「はい」と胸張って答えることはできないし、おそらく感謝の気持ちをしっかり伝えていなかったと思う。


試合だけではなく、日頃の練習とか遠征とか
毎日両親は支えてくれていたのに
私は「ありがとう」と言ったことがなかった。



高校から14年経った今
高校球児たちを支える周りの人たち、保護者や親御さんの姿を見て、
あの時の自分の両親もこうやって支えてくれていたんだって思うと、
その「ありがたさ」っていうのが苦しいほど湧いてくる。



その時の両親への罪悪感みたいなものもあるからなのか

高校野球を見ていると当事者意識を持って見てしまう。



こんなにも応援してくれていたんだ
見えないところで支えてくれていたんだ
何気ないことでも、それが自分の核となっていたのかもしれない。



いろいろと書き連ねてしまったけど、
当事者意識で見てしまう高校野球の正体は
高校時代に両親に感謝を伝えきれなかったという罪悪感から来ているんだと思う。



感謝はしっかり伝えきれなかったけど
14年経った今、こうして改めて両親への感謝の気持ちが湧いてこられて、
そして気がつけるっていうのは大切なことだよね。(都合の良い解釈だけど笑)



あの時の気持ちが途切れない限り
私はいくつになってもきっと高校野球を当事者意識で見てしまうのだろう。



高校野球栃木大会のことを書きたかったのに
自分のことになってしまった。


おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?