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わたしの筒美京平愛

音楽におけるサブスクリプションの仕組みを最初に整えた人は誰なんだろう。興味はあってもお金がなくてCDに手を出せなかった音楽も、日本の音楽も海外の音楽も、古いものも新しいものも、サブスクにさえあれば端から聴ける。おかげで音楽を聴かない日は100%ない。その誰かに僕は心からの賛辞を贈りたい。

では何を普段聴いているのかといえば、とりわけここ数年はその半分ぐらいが昭和のポップスだ。海外の作品にもたくさん感動をもらってきたけれど、それは音楽に興味を持ち深く聴き進める中で知り得たものであって、その興味のそもそもの源泉となったのは紛れもなく昭和のポップミュージックだった。特に筒美京平、林哲司、来生たかおという3人のソングライターの楽曲は、僕にとって体への根付き方がまったく違う。そしてその中でも、筒美京平の存在は別格だった。

10代後半から20代の間は、わかったふりをして洋楽ばかり聴いていた。そのうちアイルランドの音楽にのめり込んで、日本のヒット曲を小馬鹿にしていた時期もある。そんな時代の真っただ中だった1997年に筒美京平作品のコンピレーションCDが発売された。4枚組×2の全8枚。当時勤めていた音楽事務所のボスがそれを買ってきて事務所で流した瞬間に、感覚より先に細胞がスピーカーを向いたような気がした。すぐに夢中になって同じものを自分でも買い、毎日聴いた。エンニオ・モリコーネもミッシェル・ルグランもポール・マッカートニーもラフマニノフも素晴らしいけれど、あの日以来、筒美京平は自分にとって世界一の作曲家になり、それは今もまったく変わっていない。

ミュージシャン上がりの作曲家でなく、もともとレコード会社の社員で、自分自身はほとんど表に出てこないという立ち位置も魅力的だった。世に送り出した曲は3,000曲に上るという。ちょうどいま古関裕而が注目されているけれど、作曲家としてのあり方には共通点があると思う。そのキャリアを通して裏方に徹し、流行音楽作曲家、職業作曲家であり続けた。

筒美京平の作曲家としてのピークはいつだったのだろう。全8枚に1枚追加されて2013年に再度発売されたコンピレーションをあらためて聴いてみる。初期の曲は、ベタな歌謡曲もあれば洋楽の要素をそのまま歌謡曲に落とし込んだような曲もある。かなりあからさまにモータウンやバート・バカラックを感じさせる曲もある。まだ憧れを自分の音楽に昇華しきれていなかったのかもしれない。

ターニングポイントになったのは、おそらく1975年の岩崎宏美「ロマンス」もしくは「センチメンタル」だと思う。どちらの曲も、この年の春先にアメリカで大ヒットしたヴァン・マッコイのディスコナンバー「ハッスル」からの影響をかなり強く滲ませる。ただし、以前のような真似事には聞こえない。歌謡曲としてのツボを押さえたメロディーと洋楽的なリズムをどう混ぜ合わせるかのコツを、彼はこのタイミングでつかんだような気がする。ここからは太田裕美「木綿のハンカチーフ」「九月の雨」、大橋純子「たそがれマイ・ラブ」、庄野真代「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」、ジュディ・オング「魅せられて」と名曲の雨あられ。この時代がクオリティとして一つのピークだったかもしれない。

80年代はアイドルポップスをたくさん手がけ、どんなアイドルへ向けてもズバズバと、歌い手の個性をそのままメロディにしたような楽曲を繰り出してヒットを量産した時代。職業作曲家としての面目躍如で、ヒットメーカーとしてはこちらのほうがピーク。そのぶん消費も速かったけれど、斉藤由貴「卒業」「情熱」、本田美奈子「Temptation」「1986年のマリリン」、C-C-B「Romanticが止まらない」、薬師丸ひろ子「あなたを・もっと・知りたくて」あたりはもっと評価されていいと思う。秋元康の作詞家としての出世曲の一つでもある稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」も素晴らしいけれど、同じ稲垣潤一でも「夏のクラクション」はいい意味で筒美京平らしくないクールな風情があって、それがまた美しい。90年代以降はヒップホップや渋谷系に押されてさすがに時代の波に乗り切れなかった感じがするけれど、それでもオザケンと作った「強い気持ち・強い愛」は最高のポップソングだった。

最近はシティ・ポップスなるものが流行って昭和の音楽が再認識されている。その文脈で筒美京平の名前が挙がることもある。でも、それには少し抵抗がある。時代時代で音楽に求められる要素を売れるフォーマットに置き換えることにかけて超一流であり、そのフォーマットの一つがシティ・ポップスであったに過ぎないわけで、シティ・ポップスの文脈で名前が出るとそれは的外れだと言いたくなる。アーティストとして祀り立てるのも違うだろう。

流行音楽作曲家、職業作曲家という表現にはかつてはネガティブなイメージがあったけれど、今はもうその考えは古いと思う。プロフェッショナルとしてその時に求められるものを作ることに命を懸ける本物のプロコンポーザー。生み出す音楽はもちろん、僕はそんな彼の立ち方を愛したのかもしれない。

たかはしあきひろ…福島県郡山市生。ライター/グラフィックデザイナー。雑誌、新聞、WEBメディア等に寄稿。CDライナーノーツ執筆200以上。朝日新聞デジタル&M「私の一枚」担当。グラフィックデザイナーとしてはCDジャケット、ロゴ、企業パンフなどを手がける。マデニヤル(株)代表取締役