父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと の、始まりの作文
本当に、久しぶりの投稿です。
SNSで『火垂るの墓』が世界190カ国のNetflixで配信されるという記事を読み、投稿したくなりました。工芸ライターとして日本各地を取材していると、主だった都市が空襲を受け、今見る街の姿が焼け野原からの復興であることに気づかされます。ああ、この街も。ああ、ここもか、と。
ウクライナとロシア、パレスチナとイスラエル、の終わりなき紛争や、きな臭さが増している今の世の中へのやり場のない怒りや慄き、日本が敗戦をうやむやにしたツケが今まさに顕在化していることへの遣る瀬なさ、などが綯い交ぜになって、人はなぜ戦いを続けねばならないのだろうかという自問自答が、闇に吸い込まれていきます。
私が「父のおじさん 作家・尾崎一雄と父のこと」をここで書き始めたのは、東京大空襲で家族全員を失った父を通して、戦争の理不尽への怒りを熾火のように抱えてきたからなのだと思います。高校時代の作文が、初めて試みた気持ちの発露でした。在校していた都立墨田川高校の文集に書いたものを改めて読んで、その多分に稚拙な文章だけれども、芯にあるものはきっと変わっておらず、そして、これが、書くことを職業に選んだきっかけとなったことを、改めて思います。
高校二年生の時、現代国語の授業で書いたものですが、担当教師から文集への掲載を勧められたのは、思いがけないことでしたし、ちょっと嬉しかった。書くことへの憧れと苦手がいつもあったので(それは多分に尾崎一雄さんという大きな存在があり、また、出版社の編集をしていた叔父への憧れでもあり)、評価されたことが小さな自信になりました(まあ、その後何度か挫けていますけれど)。
結果、投稿作品は匿名も多く、軽佻浮薄(当時の流行)なエッセイや、文芸部的な尖り系(きっとこれも当時の流行)が大方を占めていて、優等生作文である私の文章は、おそろしく浮いた内容となってしまって、(なんてこった)と舌打ちレベルの失態ではあったのですが、形に残ったことで、思春期の自分自身を知る唯一の記録となりました。この連載でも、その作文については少し触れているのですが、久々の投稿では、その始まりの作文を掲載します(画像スキャンで、簡単に文字化できる今だからこそ)。
父を深川育ちと書いたり、いろんな経緯を端折ったり、言葉足らずが多分にあり、ツッコミどころが満載で、添削しまくりたいのですが、ほぼ原文通りにしました。どうぞどうぞご容赦ください。
以下、文集『墨田川』56号から転載します。
表紙、かっこいいですよね。等々力君、ずば抜けて絵が上手い同級生でした(面識はなかったけれど、年中校内掲示されていたので、憶えています)。藝大の建築に進学されたんじゃなかったかな。
『鎮魂』
私の父は深川育ちだ。当時の家庭は、両親と兄と妹の五人だった。けれども戦争のさなか父一人だけが疎開した。周知のように深川をはじめとして下町一帯は三月十日の大空襲で大被害を受けた。そして父の家族も空襲によって防空壕の中で折り重なるようにして死んだ。
私は幼い頃からよく父の昔話を聞かされた。上野や木場などのこと、それから家の近所の人たちのことなどを父はなつかしそうな目をして話してくれた。けれど、父が家族の死を知った時の話は、今でこそ思い出話で語ってはいるが、それでも隠し切れない悲しみが私の心にまで伝わってくる。そして同時に、一人でここまで築いてきた父を尊敬もした。けれど、そう思いつつも、父の気持ちを私は理解し切っているわけではなかった。それを切実に感じた出来事が今年の三月にあった。
父が子供の頃住んでいた家の近所の人たちの中に、小説家の尾崎一雄氏の一家がいた。尾崎一家と父の家族は、尾崎氏の小説を読むとわかるのだが、かなり親しい間柄だったようだ。そのため、尾崎氏が病気で下曽我に移った後も、行き来があり、また家族を失った父を優しく見守ってくれ、後には私の父母の仲人も引き受けて下さった。だから私にとっては尾崎夫妻は祖父母も同然なのだが、その尾崎氏が今年の正月から、『群像』という文芸雑誌に「続・あの日この日」という作品の連載を始めた。この作品はいわば尾崎氏の回想録なのだが、その四月号に父の家族の死のことを書いた文章を載せた。「群像」の発売日が、三月九日だったので、父は二十冊以上予約して、それを知人に配った。私も親孝行のつもりでお茶の水で五冊ほど買ってきた。父は予想以上に喜んだ。これほど喜ぶとは全く予想外だった。父は、その五冊を仏前に供え、「お父さん、お母さん、数子が買ってきてくれたんですよ。」と、つぶやいた。私はほんやりと仏壇をながめ、その一冊を手にとり、ぱらぱらめくった。
そして、尾崎氏の小説の文末に目をとめた。それは、父が尾崎氏の依頼で送って掲載された、母親と妹の写真の、裏の言葉だった。ー我が失へるもの二つー 思わず目頭の熱くなる思いがした。けれど、それは多分に私のセンチメンタルな気持ちによるものだった。
その晩、テレビで今まで公開されていなかった、空襲の様子や実体について放映していた。私は、テスト中だったのでその番組を見なかったが、父は何かに憑かれたように、テレビに見入っていたようだ。そしてしきりに、「深川のあそこを攻撃されちゃ、生き残れるはずないよ。まさか、あんなひどいとは思っていなかったよ。」と、繰り返し繰り返し言った。私も母も、うんうんといって聞きながらも、父の気持ちに答えることのできる反応を示すことはできなかった。父は、それに気付いたのであろう、工場の方へ行ってしまった。実のところ、その晩の父は、私にとってうとましい存在だった。「死んでしまった人たちなんだ。いまさらとやかくいったってどうにもなるものじゃない。」と、こっそり思った。母も半ばそのような気持ちだったと思う。二十年近く一緒に暮らしてきても、所詮私も母も、父の人生の外野にいるのだ。父がどんなに悲しい思いをしたところで、私たちにはわからない。工場に行った父はどうしているのだろう。ふと気がかりになって玄関に行った。電話機のランプがついていた。誰と話しているのだろう。尾崎氏とだろうか。
それから一ヶ月後『群像』の五月号が発売された。私は本棚に置いてあったその本をなに気なくとって読みだした。今月は、父のことはもう載っていまい、などと思いながら読んでいるうちに、追記という文字が目にはいった。そして、その後を読んでいくと、それはあの晩の父のことだった。あの時の電話はやはり尾崎氏への電話だった。読み続けて行くと、あの晩の父の姿がよみがえってきた。
そして、尾崎氏の父への愛情を感じた。肉親の私たちよりも父を理解している。文章の一つ一つが私の心に刻み込まれていった。文章の終りに、父が尾崎氏へ送った手紙の内容が記されていた。それは箇条書きになっていたのだが、その一つを読んではっとした。それは、これ以上の鎮魂をしてもらった仏様はいるだろうかという内容だったが、その時初めて三月九日に私が『群像』を買ってきた時の父の心がわかった。私は自分が恥ずかしかった。それにあの晩の父の興奮、あれは尾崎氏の書いたとおり、父は古傷に触れた思いがし、どうにも耐え難い感情が沸き上がってきたのだろう。それなのに、私はなんと邪険な態度をとってしまったのだろう。心の中で私は父に詫びた。同時に、私にそのことを気づかせてくれた尾崎氏に深く感謝した。
あの空襲で、父と同じ思いをした人はたくさんいるだろう。戦争という破壊行為によって生活の場を失った人々。戦争を二度と繰り返してはならない。けれど、やがては戦争を避けられない事態が来るだろう。人間の歴史は戦いと共に築かれてきた。人々の心の中にある、名誉欲や独占欲が、しばしば人を戦いへと駆り立たせてきた。
このまま平和な時代が続くとはだれも断言できはしない。けれど、願わくば、このまま平和であって欲しい。人の命の尊さを忘れてはいけない。父は誰よりも命の尊さを身を以って感じている。だからこそ、あの言葉があんなにも悲哀に満ちていたのだ。「群像」の五月号を通して、初めてそれに気づいた。そして、改めて感動した。
それは、以前感じたセンチメンタルなものでなく、確かな父の心の重みによるものだった。 ー我が失へるもの二つー 静かな、けれどやり切れない悲しみと怒りさえ感じるこの言葉は、時に、安らかな鎮魂の言葉にも思える。このたった九字の言葉に、父はどれほどの思いを込めたのか、私にはとうてい計り知ることはできない。