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教員生活を振り返る(4年目〜現在)

それなりに試練を乗り越えてきた3年間。

4年目
コロナ禍での学年スタート。2度目の5年担任。
5月まで子ども達は登校できず、週1回担任する全ての家庭に電話をかけたり、家を回って学習プリントなどの配布物を配りに行った。
ゴールデンウィーク明けから始まった分散登校。朝と放課後の消毒作業、給食指導とにかく感染者を出さないために命懸けだった。
実家に帰れば、両親からはウイルス扱いされ、家のドアを開ければ消毒液をいきなりかけられる。そんな実家と職場の往復だった。

5年目
ワクチン接種も始まり、少しずつ日常が戻ってくるかもしれないという雰囲気が学校でも広まりつつあった。
私は持ち上がりとなり、4年目で受け持った子ども達との一年間が始まった。
校長も変わり、5・6年教員団も大幅に変わり、自分の居場所がどんどんいなくなっていった。
校長からは「加配教員って使えないのよね」「私の方針に従えないなら異動して」と言われる中での勤務は苦しかった。
家では「仕事を辞めろ」「早く結婚して専業主婦になれ」「家から出るな」など日常的に両親から精神的に苦しめられていた。
どこにも居場所のない私の心は壊れた。
この頃から両親に隠れて心療内科に通うようになった。適応障害になっていた。
薬がないと仕事も生活もできない状態だった。
自分の命を守るために、実家を出ることと異動することを決意する。

6年目
一人暮らしの中で異動。見慣れた顔の多い職場への異動だったので、大きな心配はなかった。でも、ここでの校長から無理難題を押し付けられ、システム化されていない仕事の仕方、飲み会で全て決まる雰囲気に何とか適応しようと努力していた。
周りの同期たちは、結婚・出産・育児を経験している中、自分だけ一人取り残されているようなそんな感覚に苛まれていた。
産休を取る教員の分まで働かなきゃいけないことへの疑問を感じながら、深夜まで続く飲み会に付き合いで参加しクタクタになって帰宅する、そんな一年だった。
そして、秋の暮れに祖父がこの世界から旅立った。私にとって本当に本当に大きな心の傷になった。

現在(7年目)
相変わらずの校長からの圧力、引越しによる長距離通勤、教員の働き方への疑問、癒えることのない祖父を失った悲しみ、両親や弟妹へのいろんな思い・・・とにかくいろんなストレスが自分の心にどっしりと大きな石のように乗っかってきた。
気がついたら心は破れたガラスのように粉々になっていた。
そしてうつ病になった。

教員になってよかったと思うことは、視野が広がったこと、世の中には色々な人がいて色々な世界があること、自分のことを客観的に見られるようになったこと。
自分が今まで見ないようにしていたこととしっかりと向き合えることができたのは教員という仕事に就けたからだと思う。
まさに「子どもは鏡」だった。子どもの姿を通して自分自身を見つめ直すことができたことに感謝したいと思う。

これからは自分のことを大切にしながら、誰でもない自分の人生を大切に歩んでいきたいと思う。

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