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薄暗い下町のゲームセンターで、小学生が2万円を使い果たした話③

気づいた頃には、私は一文無しになっていた。代わりに、ゲームセンターでしか使えないメダルをたくさん持っていた。クレーンではもちろん何も取れず、早々に諦めた私たちはメダルゲームに興じることにしたのだ。

保守的で計画的ないとこは、少しずつ換金し、ある程度の金額を残しながらゲームをしていた。それとは対照的に、私は次々にお年玉をメダルへと換金した。つまり、両替機と、メダルゲームの椅子を行ったり来たりしていた。

私たちの横には、少しアンニュイな雰囲気の年老いた大人がいて、正月の昼間からメダルゲームを楽しんでいた。いや、楽しそうでなかった。けれど、ずっと手を止めずに、ただひたすらにメダルを入り口から投入し、動く階段状の板に飛ばし続けていた。私も彼らと同じように、メダルを飛ばした。たまに一つのメダルが階段に山積みになったメダルにうまく引っかかり、そこから沢山のメダルが取り出し口にジャラジャラと落ちてくる。それがなんだか楽しくて、ずっとメダルを投げ続けた。

2万円が大量のメダルになって、私は大金持ちになった気持ちでいたが、結局最後には、そのメダル全てをゲーム機に投入してしまった。いとこは若干引いた目で私を見ていたが、私は気にしなかった。お金は使うためにあるのだから。宵越しの金は持たない。いや、持てない。未だに私は、そういう人なのだ。

二人でとぼとぼと団地に帰った。夕方近くになって、笑うようなネタがなくなってしまったのと、お金もなくなってしまったし、疲れていたので、私たちはあまりしゃべらなかった。団地に着くといの一番に、いとこは私が2万円をゲーセンですったことを大人たちに告げ口した(私はそのことを今でも根に持っている)。それを聞いて、「ええ、バカだねえ!」とばーばは言って、あっはっはと笑った。でも、それだけで、別に怒られなかった。私は少し拍子抜けして、でも照れ隠しで、一緒に笑った。

私はばーばと、母と、母の姉(つまり伯母)が言う「バカ」が好きだった。下町の勢いある口調で放たれる、「バカ」。そこには愛がある。私はその時も、その言葉の裏にある愛を感じたし、実際に私は、大人たちに説教めいた何かを言われなくたって、この2万円事件から学んだ。それ以来、私はゲーセンに行くことをやめた。

じーじが亡くなったのは私が中学生の頃だった。私たち親族は、もちろん悲しかったけれど、死に対してとてもおおらかなところがあった。それはしっかりと良く生きたからこそであるけれども、葬式もからりとしていて、思い出話に大笑いしたり、坊さんの読むお経が下手くそだった、と、こそこそとなじったり、はたから見たら、大層ばちあたりなものだった。でもそれが、私たちなりの弔いの仕方なのだと、子どもながらに思った。そして、そういう姿勢が、心地よかった。私たちが話に花を咲かせていた数時間、その間にじーじは、灰になった。

私は高校生になって、大学生になって、大人になって、段々とばーばの家に行く機会も少なくなった。結婚した後は、正月にさえも行かなくなってしまった。でも、子どもができて、仕事を辞めて、そこからはまた、少しずつ行くようになった。いとこも少し遅れて子どもができて、私達でタイミングを合わせて、母と伯母と、女たちで集まるようになった。赤ちゃんを見て、ばーばはうれしそうだったし、私もそれを見て、とてもうれしかったから、できるだけ、顔を見せようと思ったのだ。

数年そんな風に過ごしていたところで、ばーばが体調を崩し、母たちが病院に連れていくことになった。体調不良の原因は、健診は受けていたけれど、運悪く見過ごされているうちに大きくなった、肺がんだった。ばーばはでも、たばこをやめなかった。

私たちはそれから、できるだけタイミングを合わせて、下町の団地に通うようになった。電車に揺られて、最寄り駅に着いたらいつも、もうなくなってしまったあのゲームセンターがあった場所を横目に、歩いた。あの頃を思い出しながら、でもあの頃にはいなかった、もう一人の小さな人をベビーカーに乗せて。私は、足早にばーばの家に向かう。団地のあのドアを開けると、母は大体すでに着いていてこたつに入りながら、こちらを振り向く。ばーばもくるくる回るあの椅子から体を乗り出して、ひょこっと顔を出す。そして、「お帰り」、と迎えてくれるのだった。

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