自由とは状態ではなく、アクションである −ハンナ・アーレント「人間の条件」を読むvol.6 メモ
本日も、ホテル精養軒におけるハンナ・アーレントの「人間の条件」を読む会のメモを書き残します。(ただしこれは、前回の12月にやったもの 汗)
今日の目鱗ポイントはこれ。
我々が政治だと思っているものは「統治議論」にすぎない。
アーレントの語る「政治」は、「本当に平等な空間で人々が話をすること」。政治と経済(利害関係が発生するもの)の問題をごっちゃにして語ってはいけない。
自由は状態を指すのではなく、Actionである。
ほうほう。
本日読んでいる箇所は「人間の条件」の第二章「公的領域と私的領域」のP.53から。
P.54 第二章「公的領域と私的領域」より
本当に平等な空間っていうのは存在するの?
平等者によるポリス
政治学者は「建前上は平等だから平等なんじゃない?」ということにする。あらゆる学者、例えばユルゲン・ハバーマスなどの学者は近年、「抽選性の民主主義」無作為に抽選をして、100人だけがとことん議論し合うことが必要、と説く。
暗い時代の人々
公の眼差しの中で、みんながその存在を肯定してくれる社会を「明るい時代」というならば、ありのままの自分を認めてもらえない社会を「暗い時代」とする。
隠キャ、陽キャという言葉に表されるように、
P.285 「活動」でアーレントが引用している二つの文。
理解するという行為をどう捉えるか
ここは、アーレントを理解する上での重要なポイント。
解る、というのは、共有できるかどうか、ということに等しいのか。
私はあなたたちの問題を解りたいと思うけれど、永遠に解ることはない。だけどわたしはあなたのことを理解する努力をしたい。
人間はそれを言い合って行くことが唯一の、折り合う方法。
ただ一つの真理を目標にすることがそういう平等な話し合いを邪魔するのだとしたら、真理は神様に預けよ。
アーレントが理解されないのは、人間の精神の根元にあるものを政治の問題として扱っているから。けれども、一般的に政治学者はそうではなく利害について研究することを
人間は素があるのかどうか、表現というのは、人間が他者を通じてそれをどのくらいやってきたかということを
本日の朝日新聞社説
最近出てきている概念「利他」新自由主義という概念を乗り越えていかなければならない。
ムクウェゲさん「ウブントゥ」
希望の歴史
賢者ナータン
篠原一「市民の政治学」
直接民主主義をできるだけ実現するために。
論文は仮説である。
人を説得するための言語と、論理的展開をするための言語はアリストテレスの時代から分かたれている。
省略三段論法(ギリシャ語:ἐνθύμημα, enthýmema, 英語:enthymeme, エンテュメーマ)
利害が関わっている問題は、どうしても支配、被支配の関係になる。それと原理的に関係のない話し合い、あるいは表現の場の経験について、アーレントは重要視する。
こういう経験は何のためにあるか。世の中のことを何の利害関係も圧力関係もなく、話し合うのは人間の基本的欲求にあるのではないか? という仮説を立ててみた。
これを続けて行くと、自分が考えをもつのは悪いことではないのではないか、という考えに到る。自分の意見の表明が
政治的に神様を当てはめた?
小津安二郎の映画
みんなが聞いて受け入れる、ってことが大事。
今回も、あまりにまとまっていないのですが、あとでまた編集するためにとりあえずあげておきます。
お正月も挟むし、先生があげてくれた書籍を次回までに読むぞ!と思っていましたが、無理でした (涙)
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