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選挙に行くならまずは「政治」の意味を知ろう ハンナ・アーレント「人間の条件」を読む Vol.5

「舌ほど人間の教養が蓄積される場所はない」

と、佐藤先生は言った。

赤べこみたいにうなずいてしまった。

うん、そうだ。

人間が学んだことは脳ではなく舌に蓄積される、という意味ではなく、舌と一緒に覚えたものは一生ものの知識になる、ということだと思う。

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というわけで、本日も精養軒の美味しいごはんを食べながらww

ハンナ・アーレントの「政治」の定義

「ハンナの著書は、一行一字蔑ろにしないで読むという覚悟がないと、決して理解できない本です」

と、先生は毎回いっていることを前提として出席者に告げる。覚悟ですよ、本を一冊読むのに覚悟。

どんだけ、と突っ込みたかった初回からはや半年以上が経過し、わたしもその覚悟の意味がようやくわかるようになっています。

「中心に政治という概念があるのですが、その概念そのものも一般に取り扱われている「政治」とは意味が違う」

「すべての人の見え方や経験を大事にして世界を見たり聞いたりしなければいけない。誰か偉い人が「世界」を定義したものに従うのではなく、自分にとってそれはどうなのか、というところから離れず、話し合うことで世界を理解しようということ」

人間は、自分のしたことに価値がないと思うとそれを言わなくなってしまう。自分が経験したものがかけがえのないものである、ということを伝え、お互いに理解できるように語ることが大事なんですね。

さて、国政選挙も近づいたこの日は、政治の本質に迫る

ハンナ・アーレント「人間の条件」P.51から

これに反して、ポリスの領域は自由の領域であった。そして、この二つの領域のあ間に何か関係があるとすれば、当然それは家族内における生命の必然(必要)を克服することがポリスの自由のための条件である、という関係になる。どんな環境のもとでも、政治が単に社会を保護する手段にすぎないということはなかった。たとえその社会が、中世の場合のように信仰の社会であれ、ロックの場合のように財産所有者の社会であれ、ホッブスの場合のように利得の過程を冷酷に追求している社会であれ、マルクスの場合のように生産者の社会であれ、私たち自身の社会のように賃仕事人の社会であれ、社会主義国や共産主義国のように労働者の社会であれ、すべて事情は同じである。いずれの場合でも、政治的権威による抑制を必要とし、正当化するのは社会のための自由(ある場合には、一般にいわれている自由)である。こうして、自由は社会的なものの領域に位置し、力あるいは暴力は統治の独占物となる。

先生は沖縄の例を挙げる。

薩摩藩の支配を受ける前、沖縄の宗教の中心は女性が担っていた。次の支配者を決めるときには宗教的儀式によって決めていた。

政治の政(まつりごと)とは、この共同体を一緒に作るという「マツリゴト」である。

マルクス「古い時代の経済制度、社会制度がこれ以上ないところまで発展し切ってしまったときに、世の中が変わると言われているが、それには、今までのものに変わる制度が出来上がってきていることが前提」

暴力的に世の中が変わるのではなく、事実としてこういう暮らし方が定着しているのだから、もうあっちの暮らしはいいんじゃない?と思うことで、初めて世の中は変わっていく。

労働者はとことん搾取される(私生活がない、児童まで働かされる)ので、ひっくり返してしまえと労働党宣言に書いたが、それはうまくいかなかった。それでマルクスはまた研究を続ける。

マルクスが最初から興味があったのは「私的所有」(私有財産)に関すること。

産業革命以前は、土地に縛られていたり、人格的に束縛されていたりしていたが、生存する保証はされていた。それはむしろ近代の労働者の方がない。

このあたりで他の出席者からこちらの本の提示がある↓

これは読んでみたい。

マツリゴトのトップとは何だ?

政治というものは利害だけでやっているときは、いったん分裂が始まったらいくらでも分断していく。

より自治を高めるのは賛成。(地元が生きることでもある)自治を強調すると、どこで分けるのか、という分断を進める方向に話は進んでしまう。

社会と政治を分けている根本問題は「経済的理由」、精神的につながる糸がなくなると分断は躊躇なく進む。

あ、なんかわかる気がします。

何のために他人と一緒にいるのか

非生産的、無駄なことを排除してくる、無駄なことの意味。

いまの時代は特にそれがわかりづらい。

選挙前の新聞社の予想があたらない時は「転換期」と言える。


近代の功績は「移動ができるようになったこと」

このあたりは、もう少し噛み砕かないと難しいが、近代の功績は、家父長的な支配から逃れた人々が自由に移動をできるようになったこと。

あぶれた人たちはどうなるか。議論は二つに分かれている、ベーシックインカム、最低のものを保証していくか、保険や年金、さまざまなものをぜんぶチャラにするか。

EUでもトランプに近い考え方をする人は大勢いる。低賃金労働者、(ポーランド、ハンガリー、難民の問題)を抱える。

近代国民国家は経済的単位

日本はたまたま戦後、経済的に成功してきているので、すぐ隣の国の経済的な問題については、まったく無頓着でいられた。

先生はメキシコの大学卒の月収を例に取る。

派遣労働=500万、インフォーマルセクター=3,000万(タコスやサンドイッチを販売して屋台で売る、家事手伝い)工学部を出ても、正規の働き口がない。月収は4万5千円。(アメリカなら34万ドル)。

今回の衆院選は、極めて前政治的なものである

国家の秩序を守らない人には、一番思い刑を科していいという考え方。

※ ん?どうしてそうなった?ここの論理飛躍が回収できてないぞ(汗 

自由ということの意味は

お互いで平等に関わるということにのみ、本来の自由がある。(共産主義などは、その差をなくしてしまっている。)

お互いの違いは違いとしてあるが、服従隷属とは関係のない、平等な関係を築くことができる場があるかどうか。

「音楽家は本当に精神の自由が必要なので社会主義の政権ができると逃げたんですよ。(社会主義の政権下には精神の自由がない)」「芝居を作る時、平等でしょ?」と先生。

芸術家も、労働者も、お互いのいい点を認めるというのは、政治以前のこと。

この精神的自由を保持したまま人が語り合うことが政治の中心であることを忘れてはいけない、というのがアーレントの論。

経済的領域の公共性だけでは、世の中はよくならない。(一番難しい)

公共性は、本当に公共性を保つことはできない。協同組合は

「スペインのモンドラゴン(町中がすべて協同組合でできている)を見てください。この市場で生きていこうと思うと、弱い人の首を切る、結局女性が蔑視されているんですよ」


日本の労働組合は労使協調で、取引が行われている。移民の問題にどう対処するのか。

ワイマール憲法(法制度的にはいちばん民主的な憲法)では、支持基盤が労働基盤、ドイツは第一次大戦で負けて、天文学的な借金を負ったときに、国が成り立っていないのに、労働組合の権利だけは保障する、と言ってしまった。

フォードはナチスの最大の庇護者だった。

…というわけで、完全に今回もメモ書きになってしまいました。

でもね、個人的には今回はとっても理解が進んだので、まとめはまた別のノートでしますね。(これは本当にメモとして残します)

以下はもっとメモな断片たち(苦笑)

370ページ

許しの力

85年のベルリンの壁

アルメニア人(ノアの方舟が到着した場所、アララト山はトルコとアルメニアの最悪の殺し合いでトルコにとられてしまった)

4世紀の終わりに成立したキリスト教(ここでキリスト教の定義は、イエスキリストの復活を認めたものであると決まった)それ以前の中に無限にあったセクトのなかにアルメニア教会がある。東方教会というのはそういうものをまとめて呼んだもの。

アメリカにとって一番困る国=イラン

1000年前の長安=ニューヨーク

ど真ん中にイスラム教徒のコミュニティがある。

ゾロアスター教の影響なしにはキリスト教もなにもない。

ツァラトゥストラ=ゾロアスター

アブラマツゥドラ

ナチスはインド・アーリア民族こそが最も優秀と言った。

ウード

ペルシャ

2019年 

ヤシディ教徒


この社会の中での自由をどこまで私たちは求めるのか、ということが次回のテーマになりそうです!






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