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美しく生きたかった時と、そうじゃない今

学生時代、同じ学科の友人に「美しく生きたいんだよね」なんて言った事がある。「ふうん」と友人は答えた。

「美しく生きたい」というのと、「格好良く生きたい」というこの二つは、私にとって長くて強い願いだった。後者は単純だ。私の好きな人達に恥じない生き方をする。親や兄弟や友人や恩人が、私の話をするときに自慢げに話してもらえるような、そんな人間であることだけ。

それに比べて、前者は難しい。完全に私のフィーリングが判断基準だからだ。よくもまあそんな曖昧なものを願っていたなぁと今は思うのだけど、当時は何の迷いもなくそう思っていた。言葉に消化するなら、例えば夢や希望、愛や優しさを愚直に信じ続けられる生き方とか、そんな感じだ。主人公になりたいみたいな感じ。世界の理不尽を真っ向から否定して、それを正すために懸命に戦う主人公。いや、実はこれもあんまりしっくりきてない。言語化が難しい。

最近、ふとそんな自分を思い出して、ちょっと苦い笑いが出た。いつのまにか大人になったんだなぁ。今はどうも、そう心の底から思えないから。

戦い続けないと奪われていくだけなんだとか、世界は理不尽で、ただ若いからとか女だからとか、そんな理由だけで手を伸ばすことすら叶わない事が山のようにあるとか。どんなに頑張っても私は他人を救えないし、他人も私を救えなくて、所詮自分を救えるのは自分しかいないのだとか。ああもう、世界平和とか他人の幸せとかどうでも良いから好きな人とものだけ抱えて逃げたいなぁとか。

のうのうと生きてきた私にとって、そういうアレコレは大きな刺激になった。世界は私を救ってくれない!なんて悲劇のヒロインよろしく泣いたこともあった。自分の弱さに酔っていた。あ、いや、たぶん、酔っている。現在進行形。

酔っている。酔わないとやってられない。夢や希望、愛や優しさは、私を救ってくれたり、救ってくれなかったりする。そういう不確かなものは、物凄く気分屋だ。それなのに、どう信じろというのだ。あまりにも難題すぎる。

生きていたら、許せない事が増えた。許したくない相手も増えた。でも、いつの頃からか、その怒りを世界を正すために使うのではなく、自分のバネにするのでもなく、見て見ぬ振りをするようになった。慣れていった。時折思い出しては泣いたり喚いたりして、そして一呼吸置いて、どうでも良くなって、また蓋をして体の奥にしまい込む。その作業にも抵抗がなくなった。

あらら。いつのまにか、私は主人公から外れてしまった。圧倒的なパワーで世界を救うヒーローやコツコツと努力を重ねて人々を魅了して世界を変える主人公には似ても似つかなくなった。あれ。いつの間にそうなったんだっけ。

人は、こういう変化を「成長」とか「大人になる」とか言う。それじゃあ、「成長」とか「大人になる」とかって、きっと諦める事が上手くなる事だ。まだ体の何処かで遠慮がちにジタバタしている〝主人公になりたい私〟から言えば、そんなものは「退化」や「怠惰」でしかない。

きっと、〝主人公になりたい私〟は、誰の中にも存在していて、同時に〝世界の理不尽に負けてヴィランになる私〟も存在している。ついでに言えば、〝そんなヴィランな私も格好良いじゃん?な厨二病の私〟もいる。あ、この三つ目の〝私〟は私限定かもしれないので、注意をば。

とはいえ、まだ軌道修正は効く。多分。修正するか、しないか? これって結構大きな課題なんじゃないだろうか。少なくとも私にとっては、どちらを選んでも相応の痛みが伴うような気がしている。怖い。

美しく生きたいと、今は100%の気持ちで思えない。でも諦めきれない。だから、せめて〝世界の理不尽に負けてヴィランになる私〟100%にならないように、心の何処かで〝主人公になりたい私〟を飼い続けておきたい。

でもきっと、〝主人公になりたい私〟100%になることも、もう二度とない。

大人になったんだなぁ私。

諦めたんだなぁ私。



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