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蓋している現実




3週間前くらいの朝方。わたしは巣への帰り道、(いつも通り…の恒例な!笑)命からがら8割方使わないが偶に起こり得る例外のために必要かも知れないと想像して送った荷をまとめ、人も殺められそうなと言ったら大袈裟かも知れないけども…

今回は、久しぶりの30日間連続"死してなお踊れ"(今の自分の、型通り応援してくれるお客さんはとっくに解散し、ストリップ劇場という場所でストリップと呼ばれる16分前後のショーを繰り広げることはしているけれど…はじめは誰も経験したことないコロナ禍温泉どさ廻りをはじめ、気持ちだけは前向きに、本質はこれだろうと思えるなんちゃって道楽精神もとっくに底を尽き、表面上では怪我を機に、自ら他に生きる手立てがなく、生活も容器であるカラダも空中分解したような今、ストリップを呼ぶ呼称はわたしにはこれしかなく)100ステージ近くを終えたところで、13年近くの"念"というのは"女であることは要らない"という思いであったり考えに至るまでの現実の問題や苦悩であるけれど、おそらく"念"から解放された自由から人を殺めてはいけないだろうけど、天皇になる以外何でもできそうなくらいの自由さは感じていた。

とは言っても、その自由さを実行するにはまだまだ不十分というか、何も準備がない。ただ、自分の思考が苦しみから解放されたとしよう、それには十分すぎるのを感じ、知り、分かって、そっと自力で慈しもうとし始めただけで、実際はまず何をしたらよいのかは分かっておらず、というか特になく、気もそぞろなまま。
空気のよい土地で半日ほど流されよく寝付けず(笑)朝には話題の北陸新幹線に乗っかっり東京を目指していた。

ひとまず切符を購入するという行為により決まった目的地へ向かう乗り物の座席に腰を下ろす時くらいしか、自分には確かな時はないと前々からよく思っていたが、三週間前はさらにその確かな"時"という思いが強まっていた。きっと新しめな車体、開業ほやほやな久しぶりのルートの直通新幹線にホッとしたのか、座席に座った途端に充実感に包まれ、すぐ様爆睡してしまいそうな直前にnoteのタイトルだけ仮にいくつか打って下書きに保存した。

そのうちの1つに丁度当てはまりそうなきっかけが一昨日…2週間前くらいからは、"悪霊であり神だった奴の話"(書ければ、投稿していたのをすっかり忘れていた『生命体の脅威』の本篇になる話)を…もう少し書いていたけれど、この位つらつら文字をタップしていると、どうも書き切れなくなってくるのが常。

一度、何でもいいから、自分の場合は、1日中何かをしていても、ただ鬱々と何をしている訳でもなくても、生きている限りはお祭り騒ぎな感情というか、パッションというか、念というか、思い、気持ちを、下手でも、分かりづらくても、ちょっぴりおもしろく、本当になんでもよいから書いて、もしかしてあんまり読んでなかったとしても、大しておもしろくはなくても、理由はどうであれ、読みましたよ!と、知らせるボタンを誰かが押してくれることがあったり、書いたものを自分がたぶん一番読むけど、ケッ、へへんと思いながら気が済むまで細部を修正したりなんてしていたら、もう次の日にはまた何か別のことを書こうとはしてみるものの、書かなければ落ち着かなくなる気持ちはなくなっているから、中々書こうとする気持ちを維持ができない。だいたい一週間くらいすると、またちょっとした念の渦や、パッションが内部というかきっと外部だと肉体とか部屋なのだろうけど、溜まってゆく、溢れてゆく…というのは分かってはいた、きっと分かり切ってはいたけど、自分でそのことを受け入れてどうにかしようとすることをはっきり考えたり、例えば"一週間"くらいか…と意識したりができるようになってきたのは最近のこと。

ここまでがわたし流の前書き段階っぽい。
ただダラダラ書いているといえば、そう。

分からない、何もしない、何もできない…日々なりに、(勘繰られているのを何となく察知したりで、癪なのでこの際書くと、この不器用さと困った気質だけがすくすく育ってゆく大芸術家志向で、生活保護や誰かから特別な手当などを貰えるような振舞いに合わせられる訳がなく、このところは革命、ファシズム、アナーキー、侍、武士、宇宙人、獅子、恐竜に執心気味で、あんまりな制度や仕組みの奴隷、仕事を維持させる仕事になるくらいなら、叩き壊せ、ぶった斬れ、消し去れ、燃やせと本気で思ってきているし、人は人。うまいこと器用に何かに乗っかれるのは、乗っかるのは羨ましい、すばらしい、自分にはとてもできないこと。)似たことと人は思うかも知れないけど、それは違う、ということをこれから暴き炙り出しもしたい"蓋に蓋を重ね大きくなった蓋をした現実"と心ある仕事をする人、縁ある人の情けだけで、自分でも信じられないようなどうなっているのかよく分からない生き方をしているうちに、何日か前から〈ああ、遂に自分にとっての"蓋している現実"が動くんだ…〉という流れになってきた。


いちばん大きなトドメとなった直接的なことに関してはもう2年、3年近く時を経ていて、わたしのことをよく知る友人やちょっとした知人には、少々かっこうもつけながら強がったり茶化したり批判を受けたり伝わらなかったりもしながら、そうでもしなかったら死ぬところだったので蓋をせず、相談したり、話を聞いてもらったりした人が随分とたくさんいる。深くも浅くも。何故…


しっかり者だったら、この先を有料記事にして具体的に吐露とかするのだろうし、できるのだろし、わたしもそんなイメージで書き進めていたけれど、今はまだ又お蔵入りになって今日も投稿できなかった…となり、ただでさえ零、無、白紙、nothingな今、そして明日にかけての生きるモチベーション零の濃度が尋常じゃなくなり危険なので、一旦このあたりで序章として終わってみる。


蓋していた現実を開く準備が自分に与えられてきてしまっているような…それはとてつもなくしんどいし、世間では忘れろ、次に進め、行動しろ…ばかりを促してくるようにも感じるし、あちこち蓋され、なかったことにされる人世の問題だと理不尽だと怒り、苦悩する人もまだいるけれど、蓋したら蓋しっぱなしになることが大半の自分の問題の蓋くらいこじ開けて死にたいと思った。

あやめるだとか、死す、とか人聞きが悪いと思われるかも知れないけれど、それらは全く今まで蔑ろにしてしまってきた言葉、記憶、存在、肉体…みたいなそんなもの、かげかえのない自分の営みに対するわたしなりの哀悼のニュアンスなだけです。伝わらない位で色々とちょうどいいのかも知れない。


言霊はある。

それらにはスタイルがあったり、なかったり、惑わされながらも、自分に恥じないように、わたしは言霊を、延いてはそれとともにある人としての自己の営みを大事にするためにも、いよいよ蓋にたくさんの蓋を重ねたあまり崩れ散らかった自分の現実に、裸一貫でこれから慎重に向き合ってゆく時がきたよう。

服を脱がなくても、踊らなくても、何もしていなくても、今にも場に、舞台に、死ににゆくような気持ちで日々を生きてゆくことになるとは。目の前に人や客がいて、多少なりと金銭や営みに関わり死に生きるか、目の前に誰も居らず、夢遊病のように裸で生きながらえ死んでゆくもの、か





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