二月
気にしなきゃいいっていうのは真理だと思うし、病は気から…ですら、苦いラムネを風邪薬だよと渡されて飲んだらすぐ風邪も治りそうな素直な自分のからだも知っている。だけども、今年も魔が射してくる感じはあって、もうどうにでも成れよ…といい加減に思いながらも、何もないことを願って、死期が近くなったのを悟る猫の行動を模倣する如くじーっとしていた。それ以外に何もできなかった。よく赦されたもんだ。
失うものなどはじめから無いと言えば、ないのだろうし、過去二年の二月の全く同じ日に、試されているかのように我が身に射し込んで来たあまりに大きな大きな魔のようなものは今年は流石にもう何もなかった。
書きたいことが山積みになってゆく。どう書いたらいいのか。ただ書けばいいのだろうけれど…。わずかに空気である自分で在る悦びを、目の前の人から見出し、生きる修行をしたような二月だった。三月にそれは通用するのだか。
自分を自分で認め(ざるを得ず)てきているとはいえ、目の前の"人"(互いに場の総意や気を汲み取る学習装置と化し、中にはそれが生きる目的や希望に置き換わっていることに疑いもない)の反応、営みの中で商売、運動、活動、表現。それ自体が宗教のような営み。バラバラな温度差。それを瞬時に束ねたり、連帯を目指すことの不気味さを常々感じる自分には、バラバラな気力、エネルギーの向きの中でのたたずみ方が何をしていても常にむずかしい。厳しい。削りとって洗練に努め余白を与えることの気持ちよさには、気持ちよくとも既に、飽き飽きしてしまっている。全てではない。
これ又、苦しいのを、ひしひし既に感じ始めているけれど…苦しさとシンプルな喜びは裏表でともにある。誰も置いてゆかないとかそんな幻想もあるかも知れないし、別にそんな幻想についてゆかなくていいし、勝手に取り残されたっていい。今こそどうぞご勝手に。無責任で最悪なフレーズとも思うけれど、それは逆に随分とありがたくもあった。
追い込む現状がたくさんあるはずなのに、どうでもよくなって、制限を無視しし切った魔のひと月だった。
有り難うございます、本当に本当に。
ヌードダンサー、裸婦かも知れなかったわたしが纏う空気に、愛の炎と花を、"さ"をどうもありがとう
よく呑んで、よく呑まないで、空気を耐えて、空気になって、よく眠り、よく苦しみ、よく舞い上がったひと月でした。
さてはて、いやはや
はぁ、さぁ
…
燃やし、燃えるところへ
ひと月、甘え腐り切った地獄の温床からとりあえず這い出ます。
地獄にも佛。花。炎。
背けない、欺かない、何もしない。空氣。
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