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あらゆる


リハビリ。

日記の、厨の、歩きの…

流れの、生活の…

まだ早いかな…なんてことは言ってられないんだなぁ…


不便からは解放されているけど、心は追いついていないような、からだもどうなのだか。でも、それは不便ではなかった肉体のときの方が、心は空中分解?からだは??(しかし、逆行の視点から考えたら、心の空中分解はおかしくもなかった。私の新たな念仏。これについては近々、雑記します。)問題はからだ?かな…

人の体も、踊りも、自分がそれだ、と思うものには影響を受ける'流れ'や'気分'があっても、めざすものってあんまりない。あった方がいいのかも知れないし、偶には目指す何かがある時も出てくるけど、そればかりに惑わされていたらもったいない?というか抗う気持ちとともに自分のからだ、肉体、踊り、オドリはあった。

今、まわりの人に盛大に祝福されて歩き始めてから、はじめて3ヵ月くらい2本足で満足に立てない、歩けないことを経験し、いろんなことから切り離され、それは人の暮らし、営みであったりして、晴れた日やお見舞いでお酒を頂いたり飲んだ翌日には元気が出て、懸命に床を這いつくばって草木に水を遣り、花を愛で、鳥の声を聞き(!)、虫(主に蜘蛛)に話し掛けはするものの、日に日に生き物、ケダモノとしての自分が強まる感覚が出てきた。

私は誇らしきケダモノなのだ…

たとえ人からは嘲笑されようとも、叱りとばされようとも、貶されようとも、苦言を呈されようとも、この、自分は人であり、またケダモノである、という感覚に、自分自身により支えられることがなかったら、私はもうだめだったと思う。人としての自信も誇りも残ってやしないし、喪失しているし、再生する環境にはないから。

でも、闇雲に?声高に?当然の権利のように主張することにまでは図々しくなれないけれど、自分のケダモノとしての誇りには、命を燃やす価値が十分にあるのではないか、と考えはじめる次第です。

急ぎすぎ、めざすべき、目的、体を優先させる途端にその誇りは見失われがちなのですが、人を理解しようとしたり、心とからだを鍛え、水に流して惑星のように進んでみたり、何もしなかったり…そんなちょっとした機微で保たれ、自分の支えになってゆき、いつかは肉体を置いてどこに行く?(バルタザールどこに行く?)

…ケダモノの誇りどこへ行く?


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