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継承の実践を考える

「研究・表現・生活―継承の実践を考える」と題して、8月に仲間内での報告を行った。「学期を振り返って」あるいは「長期休暇に向けて」をテーマに、1人あたり30分程度で報告をする会を昨春から行っており、今回の試みはその2回目である。「春学期を振り返って」「夏休みに向けて」というテーマを設定したが、あくまでそれは仮のものであり、参加した15名がそれぞれにテーマを拡大解釈してくれた。その結果として、それぞれ全くバラバラな内容の非常に面白い報告となった。かく言う自分も「大学生活を振り返って」「卒業後に向けて」というように、前後に期間を延ばした報告を行っている。

さて、話は変わるが、9月23~25日に「第2回松本家展―昨日の記録、1万年の記憶―」という展示を私たちは開催する予定だ。この展示は原発被災地域の農村の外れにある家を題材としたものであるが、私の大学生活と密接に関わっていると同時に、先日の報告内容とも密接に関わっている。

この第2回松本家展の開催にあたり、9月24日(土)9:00~12:00に「自主ゼミ報告会2022夏」というイベントを実施することになった。このイベントでは、松本家計画がこの1年間で行ってきた自主ゼミや、先日の関係者による報告会の内容などを再構成して報告していく。このイベントにおいて、先日の自分の報告も再報告する機会をいただいたので、noteに再編集して内容を公開することにした。

もう半年くらいかけて練っていくであろう今後の指針の原型であるから、大学で関わってきた方々からフィードバックをいただけると嬉しく思う。

1.大学生活を振り返る

まず、大学生活を振り返るにあたり、大学での活動を振り返ることから始めてみた。もう話題に上がることも少なくなったが、高校時代に棚田用稲刈り機「弥生」の開発に取り組んでいたところから、現在までの活動が連なっている自覚がある。ずっと変わらないなと思いつつ、改めて図示してみると取り組みに前後半があることが見て取れる。前半である大学1~2年次は、葛力創造舎での仕事と、UTSummerでの活動が取り組みの中心であった。実際に葛尾村で生活をしながら、地域と自分自身の距離について考えていた期間だったように思う。一方、後半である大学3~4年次は、Webアプリ開発と松本家展という未知の取り組みを始めた期間であった。福島と東京を往復する生活の中で、言葉で考えることだけではなく、具体的なモノを作ることを意識し始めた実感がある。

続いて、対外的な取り組みではなく、書き溜めてきたnoteを振り返ることにした。当時考えていたことを将来振り返りたくなると思って、半年に1本ずつほどのペースで2019年から長い文章を残してきた自分を褒めてあげたい。

タイトルだけ見てもしょうがないので、下図のように重要なトピックを書き抜いてみた。こうして見てみると、ずっと同じ話を繰り返しているなと思いつつ、前後半の過渡期にある「自由とは逃走と継承だ」という一文が目についた。特に継承の問題として今後の指針を考えられるのではないかと思い、この一文から報告の構成を始めることにした。

2.逃走と継承―自由論として

これは非常に雑な整理であることを自覚した上で、「逃走」「継承」を「消極的自由」「積極的自由」として捉えたい。アイザイア・バーリンは、他者からの干渉を受けない状態として「消極的自由」、自己の意志を実現できる状態として「積極的自由」を定義した。両者はそれぞれ「~からの自由」「~への自由」と言われることもある。「逃走」と「継承」としてこれらを捉えられるのではないかと私は考えている。「~からの自由」は個別具体的なしがらみから逃走することであり、「~への自由」は再度個別具体的なしがらみを掴み取ることであるとみなすことができるからだ。そうみなすと、継承の実践の過程として、大学生活での取り組みを捉えることができるのではないかと考える。

継承を考えるにあたって重要な要素が3つある。それは「主体」と「対象」と「行為」だ。言い換えると、何者としてどのような対象をどのような状態にするかということだ。まず、継承というからには、主体は文字通りの当事者ではないが全く無関係でもない存在であるだろう。よって、基本的に主体は曖昧な存在であるはずだ。次いで、継承とは何かが誰かから誰かへ受け継がれることである。したがって、対象は村のような実態のふわっとしたものではなく、家のような関係を具体的に記述できるものであると考える。最後に、継承は保存でも変革でもない。これは文脈をそのまま引き継ぐでも無視するでもなく、引き受けた上で自分の意思で紡ぎ直すことであると捉えている。このような3要素で成立するのが継承だと考えているわけだが、言葉で語っているだけではどうしようもない。具体的なものとの具体的な出会い方によって、その内容は大きく変わるものであるから、身体をもって実践を考えることが非常に重要である。

では、継承の実践とは何だろうか。単にこの3つの話をしたかっただけだろうと言われれば、全く否定できないが、自分にとっては「研究」「表現」「生活」のことであると考えている。生活が表現によって相互に変容していき、その全体像を研究にとって言葉にしていくようなイメージでいる。ここからは具体的にどのような「研究」「表現」「生活」を行っていきたいかということを記していく。

3.研究構想

まず、研究で考えたいのは卒業論文についてだ。葛尾村にいたりいなかったりする中で、個々人にはそこまで移住定住促進のモチベーションがないにも関わらず、葛尾村あるいは双葉郡全体を見ると、移住定住促進がどんどん過熱していく状況を見てきた。卒業論文では、その背景について現地での調査をもとに考えていきたい。

そして、卒業論文の先で、これからの集落のことを考えたいと思っている。21世紀の農村は「たしかに集落の人たちは減っているが、外の人たちまで含めて1つの集落と見なせるのではないか」という修正拡大集落論的な考え方によって可能性が示されてきた(と自分は認識している)。しかし、特に全村避難をした葛尾村においては、集落の人はいないが外の人がいるという倒錯した状況が発生しているように思う。程度の差こそあれ、いわゆる「地域づくり」の進む先にはそのような状況があるだろう。したがって、移住定住促進過熱の先に、集落の人なき集落のことを考えていきたい。

4.表現構想

次いで、表現では松本家展を非常に意識している。「表現とは何か?」と問われたら、「予期しない他者あるいは自己の反応と、それに対する解釈を重ねていくことで、私たちのあり方が変容していく過程」と答えたい。松本家展において重要なのは変容する過程だ。展示のために昔話を聞く中で知らない話が出てくる。展示のために作品を作っている中で自分の知らない側面に気づく。そのような変容の過程こそがわざわざ展示を行う意義だと考えている。

特にその意識が現れているのが「第2回松本家展」における『松本家架空日記』という作品だ。まず「第2回松本家展」自体が歴史調査の二次創作のような作品によって成立している。架空日記はそれらの作品の鑑賞者に松本家にまつわる架空の日記を創作してもらう試みだ。これは三次創作のようなもので完全なフィクションだろう。しかし、松本家展は展示を通じて、この家の建築計画を考えることを目指しているから、そのフィクションも現実の建築計画の材料として取り込まれることになる。こうして現実と虚構を往復しながら、実際の生活が変わっていく過程として表現を捉えたい。

5.生活構想

最後に、研究や表現の基盤となる生活について考える。考える言っても大した話はない。東京の会社に就職することにしたため、当面は今のような福島と東京を往復する生活を続けていくつもりだ。いろんなところでカレーをつくることも続けていきたいと思っている。そのような生活の上で研究と表現を続けていきたい。

6.卒業後の展望

このような「研究」「表現」「生活」を踏まえて、卒業後の展望を示して、報告を終わろうと思う。ここには載せられないが、大学生活を振り返る中で、葛尾村における地域インターンシップの運営スタッフをしていたときに描いた事業整理図を見つけた。そこにはインターンに参加した学生がその後どのように村に関わっていくと想定されるかについて描かれていた。その図を見ると、自分は自分で描いたイメージ図をなぞってここまでやってきたことを自覚させられる。そして、今がその図の外側に出るタイミングであろうことも見て取れる。卒業後の展望では、どのように外側に出ていくかということを考えたい。

1つは、議論についての展望だ。これまでは地域と自分たちの関係を軸に議論を進めてきた。学部卒業後は就職するため、研究を続けるわけではないが、今後は議論のスケールを前後に広げていきたいと考えている。

もう1つは、行動についての展望だ。松本家計画の取り組みは松本家という現実の建物を起点にしながら、Webなどを通じて空間を超えて成立してきた。そのような建物や集落に溶け合うようなインターネットを模索していきたい。具体的な行動は第3回展示を通じて見えてくるだろう。

以上が「研究・表現・生活―継承の実践を考える」と題して8月に報告を行った内容である。まずは卒業までの半年間、いろいろと手を動かしていきたい。


余田大輝

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