「書きたいことと伝えたいことは同義か」問いの果てに考えたSNSの怖さ

こんにちは。

タイトル前半の問いは、ある時職場の先輩との会話の中で持ち上がった。これにぶち当たった時、大袈裟な表現をすると雷に打たれたようだった。先輩の立ち位置としては、「えっ!それって同義じゃないの?誰かに伝えたいから書くんでしょ??」ということになるんだけど、その時は考え込んでしまって歯切れのよい返答ができなかった。結論、私の答えとしては「同義ではない」ということになるんだけど、同時に果たしてそれで良いのか?という疑問が波のように押し寄せて、うーーんと激しく首をかしげてしまったことを覚えている。

わたしは普段企業で広報の仕事をしている。自ずと周りには新しいことに敏感で、創作意欲や発信意欲が高い人が多い。ポイントは「創作」と「発信」というところ。この二つの関係はアートとデザインの関係のように、互いに似て非なるものだと感じている。作りたい、書きたいが第一目標なのか、あるいはそれが誰かに届くまさにその瞬間に、その「創作物」は初めて価値を持つのか。

わたしは大学時代に学生団体でフリーペーパーを作っていた。その活動に加わった大きな理由は、文章を書くのが好きということだった。これはおそらく昔からで、子供のころは自然と絵本を書いていたし、高校時代も当時めちゃくちゃ流行っていたホームページで熱心に日記を書いたりしていた。フリーペーパー制作ではもちろん企画を考えることも好きだったけど、一番没頭できるのは、取材や調査で集まった材料を並べてそれらを言葉に載せていく作業だった。自分が団体の代表をしていた時代を振り返ると、どちらかというとわたしのように「創作」が好きな人間が多数を占める傾向にあった気がする。媒体にとってものすごく大事な要素である「届ける」ための努力が疎かになっていたと、少し反省しながら振り返ることがある。

冒頭の問いを立てた先輩はnoteでも特定の分野に特化した読み応えのある記事を書いていて、文章も読みやすく、コンテンツとして価値のあるものを提供している。その人にとって書くという作業は伝える手段の一つであって目的ではない。だから、「書く行為そのものが好き」というわたしの発言に違和感を感じたことにはとても納得感があった。だからこそ、この疑問はわたしの側にぐっと突き刺さって、その後のわたし自身の思索のテーマになった。

先輩の疑問は最もであると感じる一方で、あらゆる表現は全て同じ構造を持つのかもしれない、とも思う。絵を描くこと、文字を書くこと、音楽を作ること、そのどれもが、相手がいる/いないに関わらず、作り手にとっての安らぎになっていることには皆が納得できるんではないだろうか。文章で言うならば、言葉を並べ、響きやリズムを作り、微妙なニュアンスの揺れを楽しむ(そして読み返して嬉しくなる)作業そのものが、書くという行為の目的になり得ると、わたしは言いたい。

しかしいよいよ微妙なのが、「では、なぜわざわざ人目に触れるところに書くのか」ということである。書くのが楽しみならば、自分の日記帳かハードディスクに置いておけば良い。オンライン上にそれを晒すことはつまり、誰かが読み、共感してくれる、あるいは評価してくれることを望んでいる証である。

あらゆるSNSやブログツールに言えることだが、わたしたちは皆、この異なる二つの"大義"の狭間で発信活動をしている。独り言と、"誰か"に宛てたメッセージの間の絶妙なところを縫って、ちょうど自分の気持ちの良いところに言葉をそっと置いて、一定の満足を得ている。それは多くの場合が独りよがりなものになり、無視できない確率で"誰か"を深く傷つける。

昨今の社会課題について書くつもりではなかったのに、こんな形に着地してしまった。(自分でもびっくりして途中でタイトルを変えた。笑)

近頃では「書く」と「伝える」の流動性があまりに高く、ランダムなものになっている。道端の石のように誰も見向きもしないこともあれば(それが大半だが)、マグマのように世界を飲み込んでいくこともある。何のために書くのか、そしてどこに書くのが適切なのかは、きちんと意識しておかなければならない。そして、もし誰かに伝える覚悟を決めて書くのならば、届ける努力を、苦労を、惜しんではいけない。

ではまた。

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