美しいものを描いた絵は「美しい絵」か?

 美女や風光明媚な風景を描いた絵は「美しい絵」と言えるだろうか? 美女や美男を、一定以上の技量で描いた場合、大半の人はそれを「美しい」と認識する。しかし例えば、美しいモデルやモチーフを描いていても、構図や小道具でどうにも無粋としかいいようのない仕上がりになる絵はある。美女を上手に描いた絵が必ずしも美しいとは限らない。

 さらに現代美術は「現代」の固定概念をアップデートしていくものなので、例えば、美女をモデルに描いたからといって、それを抽象画として仕上げた場合、その絵はモデルの美しさとは異なる基準で認識される。
「固定概念のアップデート」は振れた針を大きく戻すこともあるので、現代においても古典的な写実絵画が再評価されることもあろう。いっぽうで振り切った針が自家中毒のように作用して、美を振り切った、恐怖を与える表現や醜い表現になることもあろう。

 近年はキャラクターアートやキャラクター絵画と呼ばれる、アニメや漫画の影響をうけて作家が生み出した、オリジナルキャラクターの絵画ジャンルが一定の人気を博している。これは面白いジャンルで、一枚の絵でキャラクターとしての個性や性格を表現するために、背景や小道具に工夫が凝らされている。ジャンル自体が比較的若いものなので、「この作家はまだ自身がないのかな」という作家は書き込みが過多になる傾向があるが、それはそれで作品から物語を読み取る、謎解きのような要素があって面白い。現代美術を扱うギャラリーでもキャラクター絵画を取り扱うキュレーターは増えてきたが、キャラクター絵画の多面性はまだ扱いきれていないという印象である。

 話を戻そう。表題の [美しいものを描いた絵は「美しい絵」か?] という問いへの答えとしては、美しい、の基準をどこにおくかによって変わるとしかいいようがない。ただし現代において「美しいモデルを写実的に描いた絵」は売れ筋ではあっても、美術としての批評の対象にはなりにくいようだ。

 人形のはなしをしたくなってきたので続けよう。

 人形は人形単体で「作品」なので、一定以上の技量で、美女や美少女、美男子や美少年の姿を表現した人形を見ると、素朴に美しい/かわいいという印象を抱く。

 人形はかわいければそれだけで一点突破できるのである。

 これは先に挙げた絵画とは判定基準が異なる。衣装で損をしているな……という作品は時々あるが、一定以上の技量で本体が作られている場合、大きな瑕疵とは言えない。かわいければかわいいのだ。

 以前「平均顔=美形説」を紹介したが、面白いもので「かわいい」というのも訓練で培われる部分がある。ゲイではない男性に、ゲイとしてモテるタイプの男性像を見せ続けると、その人なりに「あ、この人かわいい」という基準ができてくる……レアケースではない。 
 市松人形でよく目にするのは、知識がなくてどれも同じように見えていたという人に、時代ごとの技法や素材を説明すると、それぞれの違いが認識できるようになり、自分なりの「かわいい人形」が見えてくるようになる、という事例だ。

 そして作家意識の強い作家は、一般に「かわいい」とされる基準から少し針を振ることもある。目をあえて小さくしたり、怪我を表現したり。それがあまり強くなると圧迫感になる。

「美はぎりぎり毒であり、毒は薬でありというもので、毒のない美ってありっこない。だけど毒が強くなると美でなくなる。醜になっちゃう。醜じゃなくてそれを美しさに変えて見せて行くところに人形のやるべきことがあるような気がする」(Doll Forum Japan 23号)というのは源氏物語を人形として表現することにチャレンジしていた頃の人形作家だった辻村寿三郎さんの言葉で、嫉妬や狂気といった醜さをいかにして美しさに変換するかということに腐心されていたようだ。

 絵画や彫刻とは異なる人形のアイデンティティ、というものを考えるたび、思い出すのが四谷シモンさんによる「人形は人形である」という言葉である。

 作品としての人形を表す日本語としては「創作人形」が最も適切だと思う。作家による「創作」である以上、どこかに作家としての工夫が凝らされたものであってほしいと思う。


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